第5話 初めての将棋センター

 さて、久美との折り合いもつかずに迎えた日曜の午前十時ちょっと前。僕は地下鉄大通おおどおり駅の地下歩行空間──通称チカホの一角で高井さんのことを待っていた。


「すっ、すみませんっ、ギリギリになってしまって……!」

 スマホをポチポチと操作しながら暇を潰していると、チェックのスカートを揺らしながら小走りで高井さんが僕のもとにやって来る。時刻は九時五九分。約束ぴったりだ。


「全然全然。僕もちょっと前に着いたところだから」


 むしろ感動している。誰かと待ち合わせするのに、こんなにストレスがかからないことがあるなんて。逆に時間通り来る人間のほうが少数派とかということも、ざらにある。


「き、今日は将棋センターに行くんですよね。わ、私そういうところ、初めてなんですけど、どういうところなんでしょうか……?」

 待ち合わせ場所から歩いて数分のセンターまでの時間。道すがら高井さんはそんなことをおもむろに僕に尋ねてきた。


「うーん、まあ、ひとことで言っちゃえば、この間来てくれた春来さんの将棋教室を、大規模にしたものかな。人の数も、広さも」

 規模が大きくなるぶん、教室のように誰かの指導対局を受けるということは少なくなるけど、その代わりにたくさんの人と将棋を指せるという特徴がある。


「今日の目的は、近い棋力の人とたくさん将棋を指すっていうところだから。これから行くところ、女性のお客さんもそれなりに多いし、初心者もたくさんいるから、安心していいよ」

「そ、そうなんですね。よ、よかったです……」


 ここ数年増えてきたとは言えまだまだ将棋の競技人口は男性の数が多い。どうしたって、女性が入りにくい雰囲気の道場はあるので、そこらへんのリサーチは割と慎重にやったほうがいい。今日これから行くのは僕と久美がお世話になったところなので、勝手はわかっている。


 チカホを歩いていき、直結しているビルに入って、センターの入居しているフロアへ上がる。

 すると、パチンという小気味いい駒音が幾重にも重なり合う、特有の空気が僕らに伝う。


「あら、翔太君。珍しい、今日は久美ちゃんじゃない女の子と一緒だ。もしかして、浮気中?」

 受付のカウンターに座っていた、気のいいおじいちゃんで通っている席主の児玉さんにすると僕は声を掛けられる。


「……浮気も何も、僕と久美はそんな関係じゃないです。今日は後輩連れてきたんですよ」

「へー、翔太君が久美ちゃんや彩夏ちゃんじゃない子と一緒に来るなんて滅多に見ないからさ」

「ほぼ初心者なんで、近い人とたくさん手合いつけてくれるとありがたいです」

「はいはい、わかったよ。翔太君は? 指してくの?」


 僕はふたりぶんの席料(平たく言えば、利用料)千円を児玉さんに支払い、手合いカードに自分の名前と段位を記入してすぐ「休憩者用」と書かれたボックスにカードを投じた。


「……いえ、今日はやめときます。一応、久美と彩夏さんに、彼女の先生になれって言われたので、彼女の将棋を見たいんです」

「そっか、残念。ま、気が向いたらいつでも言ってよ。手合いつけるからさ」


「ありがとうございます。よし、高井さん、じゃあここに自分の名前書いて、渡しちゃって。──すぐ手合いつきそうです?」

「うん、ちょうど初心者の女性が今日来てるから。彼女と指してもらおうかな。原さーん」

「えっ? えっ? もう対局ですか? っていうか私お金っ」


 高井さんが混乱している間に、原さんという二〇代くらいの女性がすぐにやって来る。


「原さん。今日初めての子なんだ。平手振り駒でやってみてくれませんか?」

「わかりました、よろしくお願いしますね」

「あっ、は、はっ、はい、こここ、こちらこそ、よろしくお願いします」


 会議用の長机に並べられた、空いている将棋盤を挟んで座るふたり。そんな高井さんの後ろにそっと目立たないように僕は立つ。

 ほどなくして対局が始まる。僕は手にしたスマホの将棋アプリで、現在進行形で進んでいる高井さんの棋譜を残していく。


 もちろん、高井さんにはたくさん将棋を指すことが目的と伝えたけど、たくさん指すなかでも記録を取ることは重要だ。ある程度の棋力まで強くなれば、自分が指した将棋を後からひとりで再現できるようになるから、こんなふうに僕みたいな第三者が記録を取る必要はないのだけど、今の高井さんには無理だ。それができるなら、もう初段は絶対にあるからね。


 原さんという女性との対局は、原さんのノーマル四間飛車対高井さんが急戦で積極的に攻める格好になった。児玉さんの言うように、初心者同士ということもあって、色々とたどたどしい部分が目立つ一局にはなっているけど、相手の原さんがよく勉強している方なんだなというのがよく見える指し回しをしていた。


「……あれ、なんで、いつの間に。私が攻めてたはずなのに……」

 高井さんが果敢に仕掛けを挑んだときは、前傾姿勢で勢いよく手が動いていたのだけど、原さんに上手にいなされてしまった。逆に反撃を喰らってしまうターンになると、もう全身から自信のなさがあふれ出してしまっている。


「……うーん、うーん、これじゃあ……でも……」

 対振り飛車の急戦は、どうしても自玉の囲いが薄く、また王様が駒と駒がぶつかり合う震源地から近くなってしまうのがネックになる。今みたいに、反撃を受けると脆い一面があるんだ。


 高井さんの攻撃をひらりとかわし続け、持ち駒に攻め駒を貯めた原さんは、とうとう高井さんの薄い囲いを攻め崩しにかかる。指し手の勢いの差は歴然だ。


「あっ、うう……」

 原さんの勢いに押されてしまい、どんどん手が窮屈になっていってしまう高井さん。言うなれば将棋盤は八一マスあるはずなのに、高井さんだけ一六マスくらいのなかで戦っているような、そんな印象さえ覚えた。……もっと盤面広く見られたら、いい手もあったはずなんだけどなあ。


 そのまま原さんの攻めに押しつぶされてしまった高井さんは、あっさりと土俵を割った。

「……ま、負けました」

「ありがとうございました」


 八一マスに残されたのは、綺麗に囲いが残ったままの原さんの王様と、護衛を失ってひとりで盤上を逃げ回った末に相手の駒に捕らえられた高井さんの王様だった。

 ……ここから初段まで育てるの、本当に大変かもしれないな……。

 棋譜を入力していたアプリを閉じ、僕は感想戦中のふたりの様子を見守る。


「へえ、そうなんですね、私も一か月くらい前に将棋始めたばっかりで。漫画の影響なんですけどね、えへへ」

「い、一か月、なんですね。そ、そうなんですね」

 あ、これは軽くショック受けてるな高井さん。


 ……高井さんも高校入学から将棋を始めた初心者だ。だとしても、始めて三か月にはなるから、原さんよりは歴が長いことになる。二か月の差なんてあって誤差の範疇かもしれないけど、未だに「勝ててない」高井さんからすれば、衝撃を受けないはずがない。


「高校生さんかな?」「は、はい、高一で」

「じゃあ、部活で将棋やったりもしてるんじゃないですか?」「……は、はい」

「いいなあ、楽しそうで。色々大会とかも出るんですよね?」


 彼女に悪気は無いんだと思う。雑談の一環くらいにしか感じてないと思う。だとしても、そのひとことが、高井さんにグサと刺さっているのは、後ろから見てもわかった。


「それじゃあ、ありがとうございました。これからも、楽しんでいってくださいね」

 自分と高井さんの対局カードを持って、カウンターへと向かう原さん。こういったセンターでは、勝ったほうがふたりの対局カードを持っていくのが通例だ。


「お疲れ様。惜しかったね、途中までは攻めれてたんだけど」

 ひとり席に残った高井さんの正面に座り、声を掛ける僕。

「……は、はい。つ、次は、次は勝てるように、頑張りますね」

 高井さんは眼鏡の位置を直しながら、肩を震わせそう漏らす。

 僕は続けて何か言葉を紡ごうとしたけど、


「高井さーん、高井歩夢さーん。西野くーん、西野元気くーん」

 間を置かずして、児玉さんの呼ぶ声が聞こえてきた。もう、手合いがついたみたいだ。これもセンターの特徴だ。負けに落ち込む暇もなく、すぐ次の対局がやって来る。


 今度は小学校低学年くらいの男の子が相手みたいだ。ふたりぶんの対局カードを持った元気のいい男の子が、高井さんのもとに駆け寄ってくる。

「対局みたいっ。よろしくお願いしますっ」

「あっ、は、はい。よっ、よろしくお願いします」


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