第4話 奇人の君と、糸電話と
それから、僕と高井さんは何局か将棋を指して、今日の部活を終えた。結局、久美は数学の補習が終わらず、部活に顔を出すことはなかった。
将棋教室のバイトもなかったので、帰り道にあるスーパーで適当にお弁当を買って自宅へと帰る。誰もいない自宅のリビング、レジ袋に入った弁当を置いて、僕は自分の部屋に引きこもる。
「さて、どうやって一年で初段まで伸ばそう。ああは言ったけど、相当無茶な目標なんだよな」
ましてや、年を取れば取るほど成長の曲線が鈍くなるのが将棋だ。
しばしばスポーツにおいて、「ゴールデンエイジ」と呼ばれる、子供のときは技術をみるみる習得していくという時期があると思うけど、将棋も大体似たようなものだ。
同じ一年でも、小学生の一年と高校生の一年では伸びやすさは全然変わってしまう。
「……まあ、今日指してみただけでも、昨日の反省は踏まえてくれているのが伝わってきたし、それだけでも成長と捉えられないこともないんだけど……」
いずれにせよ、険しい道のりなことには変わらないのだろう。
そんなことをひとり考え込んでいると、ふと部屋の窓際に置いた紙コップがふるふると揺れるのを見た。……来たな、今日も。部活に顔を出せなかった時点でこうなるだろうとはわかっていたけど。僕は窓の外に伸びる糸がくっついた紙コップを手に取り、
「はい、翔太だけど。どうかした」
同じマンションの隣の部屋、繋がった糸電話の宛先の久美に話しかける。
「5六歩っ」
と思えば、いきなり将棋の符号を口にする久美。おいおい奇人かよ。電話で突然将棋を始めようとするアホがどこにいる。昨日ちょっと気まずい別れかたしたんじゃなかったっけ僕ら。
「……急に始めないでよ、こっちだって予定とかあるんだから。……3四歩」
ただ……そんなアホの子と長年幼馴染をやってきたのも僕なので、久美の扱いにももう慣れてしまったというか。
「だってー、数学の菅先生なかなか補習終わらせてくれないんだもんー。おかげで今日の部活行き損ねちゃって、将棋し足りないんだよー。7六歩」
「……補習嫌なら小テストで0点取らなきゃいいだけじゃん、ちゃんと勉強しなよ。8四歩」
「むううう、サインもコサインもラジアンもよくわかんないんだもん。今まで円周率だったはずのπがどうして角度の単位になるんだよう。5五歩」
今僕らが何をしているかと言うと、糸電話で話しながら将棋を指している。
……アホでしょ? そう思うでしょ? 僕もそう思う。そう思うのだけど、付き合わないと久美はうるさいから……ほんとに。
僕と久美は幼稚園のときからの幼馴染だ。将棋も春来さんに同時に教わったし、ずっと一緒に将棋をやってきた。朝も昼も夜も、久美は将棋に夢中で、毎日のように僕は久美の家で将棋をバカみたいな量指してきた。「もう晩ご飯の時間だから」と言っても久美は「あと一局だけ」と言って聞かないしで、僕はなかなか家に帰らせてくれなかった。
挙句の果てに久美が用意したのがこの糸電話。スマホも持っていない小学生の僕らが、夜の間も電話ができるアナログだけど格好のアイテムっていうことで、久美はこの糸電話を使って夜の間も僕と将棋を指していた。あまりにも遅くまでやるから、親に怒られたことも何回もある。それでも懲りないのが、久美が久美たる所以なのだろうけど。
高校生になった今、僕らはスマホも持っているし、パソコンだってそれぞれの家にある。将棋を指そうと思えば、ネット将棋だってある。
けど、なぜか久美とこうして家を挟んで将棋をするときだけは、この糸電話を使っている。
「……それじゃあ、3二金」
勉強机の上、いつもセットしている布の将棋盤と、誕生日プレゼントに買ってもらった
「そういえばさ。今日の部活。どうだったの? あゆちーとふたりだったんだよね」
「差し当たっての目標を決めたよ。何も目指すものがないとモチベーションを維持できないし」
「ふーん。それで、何にしたの? 目標」
「……次の夏の全道大会までに、初段」
僕が久美の問いに答えると、しばらくの間返事が途絶える。いくら将棋バカな久美でも、僕が告げたものに呆れているのだろうか。
「……無謀なのはわかってる。でも、高井さんが、どうしても次の団体戦ではチームの足を引っ張りたくないって言うから。『総文祭出場を目指すチーム』で足を引っ張らない棋力なんて、大体初段くらいでしょ? それで」
「……できるんじゃない?」
笑われるかと思ったけど、意外にも久美はあっさりとしたリアクションだった。
「あゆちー、根っからの真面目さんだし、努力家さんだし。それに、むぎくんっていう心強い先生がつくなら、一年で初段だって、夢じゃないと思うよ」
「……そうだと、いいけど」
「大丈夫だよ。むぎくんの指導力は、春ねえのお墨つきでしょ? きっと、上手くいくって。うーん……9一竜」
「現在進行形で僕の穴熊をボコボコに殴りながらそんなこと言われても困るんだけど」
「大丈夫大丈夫っ。むぎくんの真骨頂は、相手がドン引きするほどの粘りでしょ? なんだったらわたしにここまで攻め立てられるのも読みのうちでしょ?」
面と向かってそれを言われるとまた複雑というか、なんというか。
「だから、まあ、普通は無理かもしれないけど。きっと、むぎくんとあゆちーならできるよ。わたしは、そう思う」
うーん、どうしよう。この局面。攻め合ってもよさそう。だけど、僕に刺し切れる自信がない。
……また、中途半端に攻め合って失敗するくらい、なら。
「……3三馬」
僕は中盤で久美の王様に睨みを利かせていた馬を自陣に引きつけ守りを固める選択を取った。
「うあー、やっぱりむぎくんなら馬自陣に引きつけるよねー。やると思った。馬は自陣に、竜も自陣に。だもんねーむぎくんは」
「……悪かったね、粘るしか能がなくて」
糸電話越し、やっぱりというリアクションを取る久美。……まあ、僕らしい手っちゃ手だよね。
「ううん、別にそういう意味じゃなかったんだけどな。あ、今週末のお休みは? どうするの?」
次の日曜日は、高井さんに時間を取ってもらって、僕がたまに行っている将棋センターに連れて行く約束をしていた。将棋はもちろん、勉強して知識を増やすのも大事だけど、効果的なのは実戦だと僕も思っている。この点は、春来さんと同じ考えかたをしている。
「日曜日に、いつもの将棋センターに高井さんと行こうって話をしてて。やっぱり、色んな人と将棋指したほうがいいし、センターなら近い棋力帯の人もたくさんいるし」
と、僕は嘘をつかずに正直に答えると、
「……むうううう、それ、わたし誘われてない」
糸電話越しでもわかるくらい、久美は不機嫌そうな声を出した。
「だって誘ってないもの」
「ずーるーいー、わたしもむぎくんと一緒にセンター行きたいー」
「……久美が来ると高井さんのプレッシャーになるかもしれないし。それに別にまた今度一緒に行けばいいだけの話じゃん」
「ふぅん。そっかそっか、指導にかこつけてあゆちーと休みの日にお出かけするのが目的だったんだねむぎくん」
なぜそうなるし。いや、なぜそうなるしマジで。
「……いや、高井さんをそんな目で見てないから」
「そんな目ってどんな目なんですかー。ぼかされてもわかんないな―わたし」
「わかんないならわからないままでいいと思うよ。っていうか僕が高井さんに将棋教えるの久美と彩夏さんの意見なんだよね。それで久美から怒られるのって理不尽にもほどがないですか」
「……5二歩成」
「って聞けよおおお」
結論、その後どうなったかと言うと。
頑なについていこうとした久美を僕がいなし続けたことに機嫌を悪くさせた久美が、僕の王様を物凄い勢いで追い詰めていき、何も抵抗する暇もなく詰まされてしまった。
「ま、負けました」
「ありがとうございました」
さすが、全道髄一の切れ味を誇る攻撃力は伊達じゃない。糸電話で話しながらなんて集中力で受けきれるわけがない。
「……もっといい受けあったかな」
「んー、っていうか、3三馬で粘りにかかったところ。攻めあったらわたしの王様に火ついていい勝負だったんじゃないの? 正直、馬が自陣に引いてくれたことで、プレッシャーなくなって攻めやすくなったし」
……あの局面か。手早く盤上をその局面に戻して、再び思考を巡らせる。いや、攻め合う手を考えなかったわけじゃない。事実、「よさそう」というところまで僕は読んでいた。
けど、指さなかった。踏み込まなかった。
「……そう? 僕は自信なかったな」
「…………。まあ、粘るのもむぎくんらしいけどね」
何か言いたげな様子で久美は言葉を濁す。僕はその言葉の続きを言われる前に、
「じゃあ、僕そろそろ晩ご飯にするから。っていうか、お弁当買ってきたのに久美と将棋指してる間に冷めちゃったよ」
そう言い放って駒を片付け始める。
「あっ、ちょ、ちょっとむぎくん、まだ話はっ。っていうか日曜日の話まだ終わってないっ」
全ての駒を駒箱に戻し終えて、リビングに置いたお弁当を回収しに行こうとした頃には、
「むぎくんんんんん! 逃げるなあああ!」
コップから耳を離しているのに久美のそんな叫び声が聞こえていた。
……玉の早逃げ八手の得とはよく言ったものだ。八手も得しないだろうけど、とりあえず今は逃げの恩恵を受けさせて貰おう。
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