第5話
「なるほど」
女の言っていることの意味がわからず、口からは間を埋めるための言葉がこぼれる。
「ねぇ、昔と違って、あんまり話さなくなったね」
「おれが?」
「うん。昔はもっと、話題をふってくれてたよ。私がわざわざ気にかけなくたって。そういうの、すごく楽だったんだけど」
「いや、おれは何も変わってないよ。むしろ、きみがよく話すようになったんじゃない。だから、おれがいちいち話題を提供しなくてもよくなったっていうか……」
「ちょっと険があるね、いまのいい方」
「そうかな。ごめん。なんのことだかわからない。特に悪意はないけど」
おれが最後の一滴まで飲み干したころ、まだ女のカップには半分程度の焦げ茶色が埋まっているようだった。おれがその色を見つめていると、女もまた、同じように見た。
さっきまで描かれていたアートめいたものは、ぐしゃぐしゃに崩れたか、女の胃液に浸っているか、そのどちらかだった。
「コーヒーって好きなんだけどさぁ。後味苦手なんだよね。わかる? だから、飲み終わったら、いつもガムを噛むようにしてるんだ」
そういって、女はかばんから取り出した粒状のガムを口に放り投げた。そして、おれに食べる、と訊いた。おれは食べると答えた。
「なんか柔らかいね。ぐにゃぐにゃしてる。ちょっと古くなってるやつかも。ごめんね」
笑みを浮かべる女の口からは、咀嚼音こそ聞こえてこなかったが、その顎を規則的に動かす動作が、どこか劣等的で嫌気がさした。
おれは結局、この女に、どうあってほしいのかが、わからない。
いくつかの一瞬、一瞬、が過ぎていった。その間、おれたちはずっと沈黙していた。
隣の就活生はその間も幾度となく女をみていた。たまにおれのほうも見た。どういう関係か、ということを推測しているらしかった。
しかし、彼は特に仲間にその報告をすることはなかった。しばらくそういった挙動を繰り返した後、彼は自分のテーブルに向かって筆記試験対策に戻っていった。『公務員試験・就活対策』と描かれた表紙が、ときおり見えた。あまり使用感のない対策本。まだ新品なのだろう。
カップに伸びた女の手が、そのまま口まで持ちあがるかと思ったが、その状態のまま、女は「ちょっと買い物がしたい」と希望した。
外は雨が降りしきっていた。女が持っていた傘は大きくみえ、もしかしたら相合傘もあるかもしれない、という思いをぼんやりと浮かべた。しかし、開いてみると、女性一人しか入りそうにないサイズだった。雨にうたれるおれをみて、女は「急ごう」といいつつも、いつもと変わらないペースで丸の内の街を歩いた。
縦に光の走る景色。影のない街をノイズで覆っている。こんなにも雨は真っ直ぐと打ちつける。だから、この雨は君よりずっと厳しい。そう思おう。そう思って、前に前に足を交互に出していくんだ。
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