第3話

「だから、嘘ついてたの」

「あ、偽名!」

 ギメイじゃなくて、偽名。なるほど。いや、なるほど、じゃないだろ。そんな勘違いをするなんて。

「なんか、ごめんね」

「え、と、……え?」

「私ずっと嘘ついてて。でも、君に対してだけじゃないんだよ」

 ようやく頭が回り始めた。少しの怒りと、なにかぶつけられるという喜びが入り混じって、おれを焦らせたり慎重にさせたりする。落ち着け、おれは騙されていたんだ。ここは怒るところなのだろう。

「みんなに嘘ついててさぁ。今更なんだけどね」

 やはり、その類いだったようだ。全身の血液が急激に股間に集束してきている。脈打つ心臓なんて比じゃない。もっと力強く脈をうっている。だめだ、いまお前が奮い立つスペースはズボンの中にないんだ。

「これさぁ、離婚した父親の名前なんだよね」

「椿?」

「じゃなくてさぁ、名字のほう。中之条って名前。ねぇ、さっきからふざけてない?」

「ちゃんと聞いてるって」

 そのタイミング、ほどよいタイミングというものはどこか。おい、お前、俺に嘘ついてたのか、おい。おれはショックだ。怒るぞ。ほんとうに。

 じゃあ、おまえ、おれとそんなに変わらない事情をかかえてるんじゃないのか。中途半端なところをみせやがって。そういう、暗くなれる要素とかあったのか。じゃあなんで隠していたんだ。

「母親も中学のときに蒸発しちゃってさぁ」

「はじめてきいたんだけど……」

「うん。たぶん、はじめてだよね。これ言うの」

 なんだよ。そうだったのかよ。なんだよ、なんだよ。生まれながらのエリートでいてくれよ。そうでないと、おれが惨めになるだろ。おれだって、親が蒸発してんだから。両方ともどっか行っちゃって、それを引きずることに、それについて悩むことに、長いこと費やしていたのに……。

「私もまぁ、いろいろですよ。きみも大変だったんでしょ?」

「え、ええと。まぁな。おれはもう、不幸の化身みたいなやつ、だからな?」

 一緒にしないでほしい。一緒にすると、途端におれの価値がなくなる気がするから。本当にやめてほしい。おれ、じぶんの不幸を糧に生きているところ、あるんだからな。

 そうは思っていても、下半身はずるずると下着を舐めるように上ずっていき、ついに天井を向いた。こういうときの、下半身の痛みと心の痛みはどこか似ている。

「でも母方の名前のほうが気に入ってて。かっこいいし」

 女は伏し目がちになるが、再び瞳の輝きを取り戻す女に、おれは値踏みしてしまった。

「まぁ、もうこれで会うの最後のつもりだったしさ。最後にいっておこうと思って」

 最後のつもりだったの?

 俯いたまま、自分の勃起に訊く。

「最後のつもりだったの?」

 思ったことがそのまま言葉になった。

「最後のつもりだったよ。だからこんなこといったんじゃん」

「なんで?」

 おれはそう訊いたが、女は何も答えなかった。カップに手を伸ばして、遠慮がちにすすった。

 店内にはちょうどおれたちと同じような年恰好の男女たちが、席を埋め始めていた。最初は静かだった店内も、喧騒に満ちていく。なんだか、この場のみんながみんな、不幸にみえてきた。同時に、おれはやるせなくなってきた。

 隣のテーブルに座った就活生と思しき男子三人組のうちの一人が、何度も女の顔を盗み見ている。おれは「となりのやつ、やばい。見すぎ、見すぎ」と声を落としてみたが、女はその様子に気づくことなくおれに話し続ける。

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