第2話
この女は初対面のはずの店員と、なぜか談笑していた。わけがわからない。おれにはほとんど笑顔を向けやしないくせに、「新作のあれ、もう飲んだんですよ。おいしかったー」などと述べていた。
それにもかかわらず、おれにどのコーヒーがいいのかも訊かずに注文するもんだから、カプチーノが二つ、注がれてしまった。この選択権のなさ。ますます、息が荒くなる。もうこの空気に、上限まで飽和してしまって行き場を失ってしまっているようだった。
ねぇ、もしかして聞こえてた?
カウンター越しに、緑のエプロンのお兄さんに訊いた。
こういうとき、どうすればいいの?
「席とっとくから、出てきたら持ってきて」
そういって、ちゃきちゃきと動くものだから、女の後ろ髪が大きく揺れた。バニラの香りが鼻をつっついた。たまらなく苦しかった。
ほら、圧倒的な差がついてしまった。
もはや、将来性だけの問題ではなくなってしまっている。将来性と、それに付随する自信が、いつのまにかおれたちの差に陰影までつけにかかってきている。
レジカウンターに放置されたおれは、所在なく、ただ佇んでいた。
支払いは私がしたから、後はあなたが運んでね、よろしく。うん、似合ってるよ。そういうの。
絶対に、あいつはそう思っている。いや、やっぱりそんなことは思っていないかもしれない。支払いを終えたとたん、ごく自然に、お気に入りの席を目指す姿をみていると、やっぱりそう思っているようにみえてきた。
もういい。二つのカプチーノはもう永遠に出てこなくたっていいし、女はもうおれのことを忘れてしまってくれたほうがいいのかもしれない。
そんなことを思いながら、揺れる手先を制御して、慎重にカプチーノを運んでいった。
遠くのテーブルで、膝を組み難しそうな顔でパソコンをタイピングする女がいる。たぶん、パソコンの型は最新モデルなのだろう。最新モデルじゃなくたって、もはや最新モデルにしかみえない。そう思わないとやっていられなかった。全ては仕方のないことであると、自分に言い聞かせた。
カプチーノをのせたお盆を持った時、はじめて自分の手が震えているのに気付いた。おれが、まだマシな人間だと思えるのは、こういった自覚があるからだ。
席につくまでに、この過剰な自意識を正さなければならない。なんてことをいちいち思うほどなのに、ああ、一滴を口から零してしまった。垂直に影を落とした液体は、いつかみた、貧乏な風呂場に出てきたなめくじの軌跡のようだった。ナプキンに向かっていた彼の侵攻、迷いもなく、ついにその姿を消した……。
「私の名前ね、ずっと偽名だったの」
おれが席につくと、唐突に女は口を開いた。目線は、おれの失敗へと、しっかり向かっている。
「ギメイ……。ギメイって?」
なんで急に魚の名前なんだ、と思うほど、女の口から出てくるギメイは、きいたことのない外来魚のような響きをもっていた。
店内のコーヒーの香りが、急激に磯臭くなり、茶色い海で、顎の尖った珍妙な魚が泳ぐのを想像する。その魚は、まだ磯臭さの異なる一回り小さな奇怪な魚を食べて、いま、こちらをみた。
あるはずの目が、退化していた。おれはどこをみてよいのかわからず、目と思しき窪みを凝視する。視線はいつまでも一方通行で、目の前の姿の存在を信じ切ることができない。
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