第10話 モヘレブ太守の憂鬱

 ジョゼッフォ・バイロウの館から異国の奴隷約300人が逃げたことを受け、モヘレブ太守ヒドーサ・ワゼギムは検問所の設置と治安維持体制の強化、そして、首都ガパへの報告に追われることとなった。


 身分証明のない異国民をモヘレブ市外に出すのは危険だと判断した。

 着の身着のまま逃げ出した奴隷たちは無一文である。昨晩のうちに強盗事件が三件あった。さらに、朝になって街に人が行き交う時間をすぎると、引ったくりや置き引きの報告が次々にあがってくるのに、温厚で知られるモヘレブ太守もうんざりし始めていた。


 ジョゼッフォ・バイロウの使用人サジ・ベルジと私費で雇った傭兵たちに対する暴行事件も起きた。これは、奴隷約300人が逃がして逃亡中のクレメンテ・ドゥーニとその仲間によるものだと、バイロウから被害届が提出されている。

 バイロウからの被害届は2通目である。

 奴隷を無断で逃され財産を不当に奪われたという被害届が夜半すぎに、暴行事件の被害届が翌朝一番に届けられた。

 被害届には、加害者にがいたとある。内容によると実質的に暴力行為を働いたのはこの男のみと読み取れる。


「ひとりで13人を蹴散らせる帝国兵だそうです。しかも、死者はなし。重傷は一人、軽傷と無傷がほとんど」


 被害届にモヘレブのイリム・ジェペフが顔を顰めた。イリムはモヘレブの警察部門を担当する都尉である。


「もし本当なら相当戦い慣れした兵士ですな。これはタサの……」

「そうかもしれん」


 イリムが名前を出す前に、太守は返事で遮った。


「で、あれば、我々の手に負えそうにありませんね。

 現場を調べたところ暗殺者アサシンと見られる遺体も4体残っていました」

「………………」

 

 太守と都尉は、無言のまましばらく俯いた。

 二人の頭の中には、タサ太守殺害と帝国への叛逆を企図した嫌疑が掛けられた者――ナギル・ルルーシュとサレハ・イスマーンの名前が浮かんでいる。


 モヘレブ太守は幼いナギルを見たことがある。

 今は亡きタサ太守ウマル・ルルーシュに抱き上げられていたのを一度だけ。

 人見知りだった。ウマルに抱き上げられたのも初対面のヒドーサから逃げて隠れようとしたからだ。


 ――抱きかかえられ父の胸に顔を埋めていたあの子が、本当に父親を殺したのか?


 「本人に聞いてみないことには分からない」とヒドーサは思っているが、それを口にすることはない。


 太守は、都尉と協議を再開した。

 犯罪行為を犯した奴隷たちの捜査及び治安維持の体制構築を行う一方で、逃亡中のクレメンテ・ドゥーニとその仲間の捜索は特別な部隊を組んであたる。

 バイロウの被害届によると使用人及び傭兵合わせて13人が一度に被害者となったことから、クレメンテ一味の確保にはが必要であると判断し、首都からの応援要請を行うこととした。


 これは、モヘレブ産業振興会からも意見書が届いていたのを踏まえての決定でもある。

 今年の会頭はエドアルド・バジェだ。

 港湾都市モヘレブ屈指の貿易商として手広く品物をを扱っているが、昨今はエラム帝国東部戦線への物資・人材供給が優先される状況であるため、今般300人もの奴隷を失ったによる奴隷の補填と今後の対策が必要であると意見が述べられている。

 文末には、東部への物資・人員供給は港湾都市モヘレブに対する皇帝陛下直々の要請であるため首都への報告も付け加えられていた。


 エドアルド・バジェの顔をたてつつ、モヘレブの警察部隊だけで対応するよりも、効率的に大罪人集団を捉えるのに最良の策を取りたい。


「暗殺者についてはいかがいたしましょう」

「依頼主が気になるところだが……ふむ。

 それは、クレメンテ・ドゥーニたちを捕らえ、状況を聞いてから対応しよう。

 暗殺者が絡むと面倒なことも多いだろう。今は、内々に処理しよう」




 都尉に異論はない。首肯し、執務室を去っていった。

 モヘレブ太守は深い溜息をつき、ランラを呼んだ。

 ランラは、飯炊きの女性に一人娘がいると聞いて雇った少女だ。


 太守が移動し、着座した文机ふづくえに積まれた書類の束は、救済を求めて殺到している奴隷たちにどう対処すべきか、寺院からの相談依頼書である。

 ヒドーサ・ワゼギム個人としては、異国民であれ、人身売買を是とする昨今の帝国の風潮には、人道的見地から賛同しかねていた。

 しかし、これが皇帝陛下のご命令であれば、官吏である以上、従わなければならない。


 ――ガパに状況報告と今後の処遇について伺いをたて、下知が下るまで、奴隷は寺院の預かりとし、保護に必要な人員派遣と物資提供を行おう


 太守はすでに方向性を決めていた。

 各寺院の受け入れ可否と必要人員と物資の確認が必要だ。




 廊下からパタパタと元気よく子どもが走る音が聞こえた。

 ランラだ。

 太守の険しくなった顔が、意図せず綻んだ。


「太守さま!お呼びでしょうか?」

「ランラ、お茶を淹れてもらえないか」

「畏まりました!」


 飲み物を依頼すると、召使いとしてやってきたばかりのランラは元気のよい返事をして出ていった。パタパタと走る音が遠のいていく。

 母親に似て懸命に働く少女だ。

 

 ――やれやれ……ワシも、疲れてはおれん


 モヘレブ太守はさっそく文官を呼び、首都ガパに送る報告書作成から取り掛かることにした。

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