第3話 光さす方へ

 ――この部屋は月の光も差し込まない、牢獄のようだ。




 メアポナラ暦642年元日――時計の針は午前2時を指している。

 見回りの時間だ。

 クレメンテ・ドゥーニはデスクの右一番上の引き出しに入っている鍵を手に取り、自室を出た。

 階上での新年を祝うどんちゃん騒ぎもすっかり静まっている。

 木の扉を開けると、ギイと軋んで、乾いた音が石造りの廊下に響いた。

 

 クレメンテの部屋の隣の独房が、ジルにあてがわれていた。

 見張り用に扉についた小さな窓から中を覗く。

 ジルは壁側を向いて横になっていた。肩のあたりが上下にゆっくりと動いている。  

 自殺していないことを確認し、安堵を覚える。




 廊下を歩いていくと、鉄格子で仕切られた大部屋が5つ続いている。

 各部屋ごとに50人程度の奴隷たちが膝を折って窮屈そうに雑魚寝していた。寝返りも打てず、苦しそうに手足を動かしているらしい。鎖の擦れる重い音に交じって、呻き声や、いびき、すすり泣きが聞こえる。


 彼らは三日後、市場が開くと同時に、見知らぬ異国の地に売られる。

 クレメンテが買うのを手伝った奴隷たちが金で買われるのだ。

 クレメンテは黙って、彼らを引き渡すことしかできない。

 クレメンテは「人買い」になる。


 鉄格子の向こう側から、クレメンテを見つめる目と視線が合った。

 10歳にも満たないだろう、褐色の肌をした少女だ。クレメンテは、この少女も含めて一山300グリーグで買い、三日後に別の人間に一山500グリーグで売り捌く。


 月が徐々に欠けていくように、クレメンテは自分の心が蝕まれていくのを感じた。


 ――オレは流されるままに闇に堕ちるのか


 人間の心が、魂が月のようならばいい。

 月が欠け新月となり、また満ちて満月となる。

 その繰り返しならどんなに楽か。


 ――魂を売った人間が、再びその魂を買いなおすことはできるのか?


 自分ではない誰かを買って、売って、また買って、自分の飯の種にする。


 クレメンテは彼らを買ってしまった。

 そして、三日後には彼らを売ろうとしている。

 その時は、自分の魂も一緒に売ることになる。

 

 ――ジョゼッフォ・バイロウは豚だ。魂を売ってブクブクと肥え太った豚だ。


 クレメンテもバイロウと同じ側になる。


「やさしいヤツだな。もっと非情になったほうがいいぞ、人買いなんだろう?」


 ジルの言葉が頭の中に蘇る。

 それから、クレメンテは再び同じことを思う。


 ――オレは人買いじゃねぇ!!!




 クレメンテは大部屋の鍵穴にそっと鍵を差し入れ、時計回りに鍵を回した。

 ガチャリと錠が外れた。

 目を覚ましていた部屋の中の奴隷たちは呆気にとられてしばらく口を開かなかった。

 クレメンテも黙ってその場を去った。




 クレメンテが、奴隷たちが詰め込まれた5つの部屋の鍵を開け、ジルの独房に入った時には廊下は騒然としていた。寝ていた奴隷たちも起こして、開いた扉から逃げ始めたのだ。


「……ジル!……ジル!!!」


 クレメンテは上半身だけ身を起こし、眠そうに頭を振っているジルに声を掛けた。


「ジル!逃げるぞ!!!」


 状況を把握できていないジルは、ぽかんと口を開け、瑠璃色の瞳でクレメンテの顔をぼんやり眺めていた。それから


「なんだよ……眠いのに」


と呟いて、右目を擦った。


「バカ!ジル!!!逃げるぞ!!!早く!!!」


 クレメンテはジルの腕を掴んで部屋から強引に連れ出した。

 大勢の奴隷たちが逃げるのに紛れて走る。

 門番は大柄な複数の奴隷たちに袋叩きにあってのびていた。


 ――自由だ……


 バイロウの屋敷から踏み出した瞬間、クレメンテは笑いが堪えきれなくなった。

 大声で笑った。

 愉快で堪らない。

 こんな爽快な気分はバイロウのところに奉公に来て初めてだ。


「これからどこへ行くんだよ?」


 毛布を頭から被って走っているうちに、状況が飲み込めたようだ。

 クレメンテの後ろをついてくるジルは、冷静にこれから行く宛を尋ねてきた。

 舞い上がっていた、クレメンテは虚を突かれた。


「どこへ行くって……」


 どこへ行けばいいのか。

 それは、クレメンテにも分からない。

 正直なところ、行く先になんてどうでもよかった。


 250人を超える奴隷たちが、自由に狂喜乱舞して全力で逃げる喧騒の中、ジルに聞こえたかは分からない。

 クレメンテは走りながら叫んだ。


「月が出てる方だよ!」


 その時のクレメンテはただ、光のさす方へ。

 光さす方へ逃げたかった。


「月が出てる方!!!」


 自分の魂が堕ちかけた闇から光さす方へ。

 一刻も早く逃れたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る