第4話 月魄亭にて

 波止場のはずれの路地裏はどぶ臭い。崩れかけた黒いバラックが立ち並んでいる。

 その中に月魄亭げっぱくていはある。

 深夜だというのに猫を膝に乗せた老婆が扉の前に座って居眠りをしている。

 その扉から僅かに灯りが漏れているのと、斜めに傾いた看板がなければ、煤けた古い木造長屋にしか見えない。看板に書かれた宿名は目を凝らしても判読できないほど薄い。

 

 蝋燭の火がテーブルの上で揺れている。

 クレメンテとジルは薄暗い宿屋の一階奥のテーブルで差し向かいに座り、オリーブの酢漬けとチーズ、薄っぺらいハムの載った小皿を前に、薄いエールを飲んでいた。


「……たくっ!後先ぐらい考えて行動しろよ」


 ジョッキを煽ったジルが、ブツブツと過ぎたことに文句を言い続けるのに、いい加減クレメンテもムッとして反論した。


「なんだよ!?オレはお前を助けてやったんだぜ?もうちょっと感謝してくれたっていいんじゃね?」

「いやいやいやいや!助けてくれって一言も言ってないだろ!」

「……そりゃそうだけど!じゃあ、お前はあのまま奴隷として変態オヤジに売り飛ばされてもよかったってことかよ?」

「それ、お前が心配すること?」

「そりゃ違うけどさ……」


 外ハネの赤い髪をグシャグシャにして、クレメンテはテーブルに肘をついた。


「ねぇ、お前オレに惚れてんの?」


 ジルの聞き捨てならない言葉にクレメンテは手を止める。顔を上げ、ジルを見据えて早口で捲し立てた。


「はあ!?ちげーから!それはないから!!!オレは女が大好きなの!!!!!そんな趣味はない!!!!!オレは、お前がかわいそうだから助けてやったのに……」

「だーかーら!他人ひとのことかわいそうとか言うなっつーの!そういう上から目線なのがムカつくんだよ!!!」


 オリーブの酢漬けをつついていたジルがむくれてクレメンテを睨んだ。




 ――憐れむような眼でオレの顔、見ないでくれる?




 初めてジルと会ったときに言われた言葉を思い出した。

 クレメンテとしては、上から目線のつもりは毛頭ない。

 しかし、祖国を失ったこともなく、裕福ではなかったものの平和に暮らしてきた自分には理解できない過酷な運命を辿って生きてきたヤツからすると、知らない他人が勝手に同情するのは「上から目線」に映るのかもしれないと、クレメンテは思い直した。


「……悪かったよ」


 クレメンテは謝罪の言葉を口にして、頭を垂れた。


「今からバイロウんとこ戻って二人で謝る?」


 急に殊勝になりすぎだ。

 バイロウのところに戻って謝ると言い出したクレメンテに、ジルは「プッ」吹き出した。


「それ逃げた意味ないじゃん!謝って済まねーし」


 そんなことは分かっている。

 クレメンテはジルに悪いと思っただけだ。

 クレメンテがしでかしたことはバイロウに謝って済む問題ではない。八つ裂きにされても足りない。八つ裂きにされた上に、魚の餌にされても足りないはずだ。


「じゃあ、別にいいだろ。やっちゃたもんは仕方ないぜ?」


 ジルが奴隷として生きているのは不幸なことであり、解放されるべきだと思ったのは、自分の正義の押し付けだったのかもしれない。自分の信念が揺らぐとともに、自分の気持ちを再確認する。


 ――オレは自分が逃げるために、ジルを逃がしたんだ。


 クレメンテはジルを巻き込んだ。


 ――オレは人買いじゃねぇ!!!


 決心したのはクレメンテ自身だ。


 バイロウの屋敷から強引に連れ出したジルの気持ちは分からない。

 面倒くさいことに巻き込んだのかもしれない。

 ただ、一瞬でも笑ったならよかったと、クレメンテは自分を慰めた。


「とりあえず、ここ出るにしても宿に留まるにしても金が必要だよなぁ。客でも取るかな」


 クレメンテの逡巡を、ジルは気にしていない様子だ。

 すでに起こってしまった過去よりも、今後のことが気になるらしい。

 当面の資金調達を算段し始めた。留まるにせよ、逃亡するにせよ、先立つものが必要だ。


「はぁ?そんなん辞めろよ。奴隷と変わんねーじゃん。

 そんなんできるなら荷物夫でも掃除夫でも傭兵とか。他の仕事もできんだろ?」


 クレメンテは、ジルが身体を売ろうとするのに反対した。

 ジルを他人のいいようにされるのは嫌だ。


 ――「お前」は「お前」の自由だろ!?


 クレメンテは思った。

 ジルは自由だ。クレメンテが自由であるように。

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