第1章 痕(3)

 化け物──そんなものがこの世に?

 

 風の強い帰り道を急ぎながら、壬朋みともの話を、私はにわかには信じられなかった。けれど、もしもこれが本当だというのならば、もう神頼みくらいしか私には思いつかない。

「かみさま……どうか壬朋をお救いください」

 そう呟いて、自分の言葉に私は、はっとした。

 さっきまでまるで他人のような顔でいた〈神様〉が、急に身近なもののように感じられたのだ。

「そうだ、うちの奥にある礼拝堂……」

 実はうちには古い──たぶんキリスト教? の、礼拝堂がある。

 たぶんと言うのには、理由がある。

 私の家は別にキリスト教を信仰しているわけでも、ましてや神父や牧師の家系でも無い。

 お父さんが不動産屋から条件の合う古いロシアの洋館を買い取ったら、その裏に礼拝堂がついていただけのことだ。

 私にはその由来も宗派も分からないので、子供の頃から薄暗い礼拝堂には、ただただ怖い、という印象しかない。

 居間を出た板張りの廊下は長く、その奥にもう使われていない古い礼拝堂があるのだ。

 今までだったら怖くて近寄ることすらしなかったあの場所へ。

 私は藁をも縋る思いで壬朋のことをお願いしに行ってみることにした。

 家に着き、百合子さんの出迎えを期待して玄関のチャイムを鳴らす。

 けれど返事はない。

 ドアノブを回してみると、カギがかかっていた。

 仕方なしに自分の鍵を出し、玄関を開ける。

 家の中にも人の気配はないようだ。

「百合子さん?」

 居間を覗いても、ソファの上にも姿はない。

 出かけてるのかな、と思いながら、自室へ戻り、荷物をデスクへ置いた。

 せめて百合子さんが家の中にいたら良かったのになあ、とは思う。

 ただでさえ気味の悪い礼拝堂へ、誰もいない今、ひとりで向かうのは気が引けた。

 と言っても、百合子さんに一緒に来て下さいとは言えない。

 さすがにそれは気恥ずかしい。 

 気を取り直して、私は恐る恐る礼拝堂へ続く廊下に向かった。

 普段、誰も通ることのない廊下は、うっすらとほこりが積もっている。

 スリッパを履いてくるべきだったな、と後悔しながら、靴下でぺたぺたと足跡をつけて廊下を進む。

 廊下の突き当たりには、ステンドグラスで装飾された古びた樫の木の扉があった。

 ためらいがちにドアノブに手を掛ける。錆び付いた金具はキイキイと嫌な金属音を軋ませる。

 そうしてやっと扉は重い音を立てて、こちら側へと開いた。

 丁度、礼拝堂の祭壇の横へと出たらしい。

 中へ入り、改めて祭壇を正面から見上げる。


「すごい……」


 思わず声が出た。

 祭壇の上にはこれまた大きなステンドグラスの窓が三面嵌め込まれており、夕暮れの淡い光で木の床へと色とりどりの影を落としている。

 そのステンドグラスの手前には、彩色の施された磔刑のキリスト像が安置されていた。

 手足を釘打たれた痛々しいその姿は、思わず目を背けたくなるほどだ。

 祭壇の両脇には背の高い燭台がいくつも立てられ、溶けて固まった蝋燭がほこりを被り、まるで化石となっているかのように見えた。

「こんな場所だったのね……」

 ここへは来たのは、子供の頃に両親とかくれんぼをした時に迷い込んで以来だった。いや、もう一人誰かいた──あれは、そうだ、あれは百合子さんだ。

 遠い昔の、百合子さんの記憶を思い出せて、私は少し嬉しくなった。

 薄暗い礼拝堂の中には、ガタガタと風が窓を揺さぶっている音だけが響いている。

 外では強風が吹き荒れているようだ。

 風の音におびえながらも、祭壇の前に立った。

 神様にお願いしようとにわかに思い立ちここまで来たものの、お祈りなどしたことがない。神社みたいには行かないだろう。一瞬どうしたものかと途方に暮れる。

 取りあえずその場に両膝を突き、いつか見た外国の映画を思い出して、胸の前に手を組んだ。

 すうと息を吸い、小さな声で祭壇のキリスト像に願う。


「神様、今まで怖がっていてすみませんでした。どうか、壬朋を怖がらせる化け物を退治してください」


 それから、どうすれば良いのだろうか。

 映画では十字を切っていたような気もするけれど、その手順も分からない。

 お祈りというよりは、単にお願いとなってしまったので、形だけでもと最後に「アーメン」とつけくわえた。

 これは作法に適っているのだろうか。それもやはり、わからない。

 だんだんと、なんだか神様に申し訳のない気がしてきて、立ち上がってキリスト像にごめんなさいと頭を下げた。


 その時。


 突如、それまでガタガタと、窓枠を揺さぶっていた強風が、礼拝堂の古いステンドグラスを打ち破った。

「きゃあぁぁぁッ!」

 壇上のステンドグラスが粉々に砕け、虹色の破片が降り注ぐ。

 とっさに逃げることも出来ず、私はその場にかがみ込んだ。

 ──怖い!

 頭を抱え込みながら、ざくざくと自分を切り裂くであろうガラスの破片を想像する。


 けれど。


 降り注いだはずのそのガラス片は、いつまでたっても落ちてこなかった。

「……え?」

 おそるおそる、顔を上げる。

 割れた窓から吹き込む風に吹き上げられた、柔らかな髪の毛先が私の頬を撫でた。

 顔を上げると。自分に覆い被さる人影があった。

「百合子……さん?」

 その姿は。

 百合子さんだったけれども、百合子さんでは無かった。

 は私の知っている百合子さんだったのだけれど、その背中から緑色の、蝙蝠のような翼膜が広がっている。

 飛び込んできた百合子さんは、頭上に片手を上げており、その上の空間にはきらめくガラス片の大部分が浮かんでいた。

 それでも静止が間に合わなかったらしい幾つかのガラス片が、百合子さんの右頬や広げられた翼膜を所々切り裂いている。

 いや、むしろ間に合わなかった破片から私を庇うためにその翼膜を開いたのだろう。

 その姿は、およそ人とはかけ離れていた。

 私は驚きに声も出なかった。


「もう嗅ぎつかれるとはね」


 百合子さんは、上げていた腕を振り下ろしてガラス片をまとめて礼拝堂の奥へと飛ばすと、自分の頬の血を片手で拭った。

「ちっ忌々いまいましい」

 そこで我に返った私は、急いでポケットの中を探る。

「大丈夫ですか!」

 たずねながら、ハンカチを見つけて、百合子さんの翼膜の傷に触れようと手を伸ばした。

「驚かないね?」

「驚いてますよ! 痛くないんですか、こんな……ああ、細かいガラスが刺さってる」

「触らない方が良い。あんたの指が裂けるよ」

「でも、私のせいで!」

「素手で砕けたガラスに触るなんて馬鹿のすることだよ。あたしなら大丈夫だ。すぐに癒える」

「ホントですか?」

「ああ」

 私は取り出したハンカチを握り締め、おずおずと百合子さんに聞いた。


「あの、百合子さんは、人じゃないんですか?」

 

 百合子さんは、呆れた顔で私のことをしげしげと眺め、不可思議だと言わんばかりに首を振りながら答えた。

「……その認識の自信はどこから来るんだろうね」

「え?」

「どうして私が百合子だと思うんだい? こんな姿を見ても?」

「だってそれは百合子さんは……百合子さんだから……」

 しどろもどろになった私を、百合子さんは気にも留めず割れた窓の外を見ている。

「もうこの街までやってくるとはね、計算外の早さだわ」

「外で、何が起きているんですか?」

「フェーンだよ。フェーンが吹いてる」

「フェーン?」

「魔風のことだよ。ヨーロッパでは昔から、この乾いた風が吹くと、ろくな事が起きないと言われているの。乾燥した風は木々を揺らして枝を擦り合わせ山火事を起こすし、時に、人々の自律神経を狂わせて不安へと陥れたりもするわ。それは集団妄想となって……」

「百合子さん」

 そう呼ぶと、百合子さんははじろりと、私を見た。

「まだあたしをそう呼ぶのかい。いい? あたしの名前はジャナ。ジャナ・ドブラノ。六百年以上前に人間を辞めた、いっぴきの悪魔なんだよ」

 私は混乱しながらも震える声で尋ねた。

「え? それじゃあ、本物の百合子さんは?」

 ジャナはにべもなく答える。

「死んだわ」

「そんな!」

「飛行機事故に巻き込まれたの。あれは不幸な事故だったわね──その時、あんたの叔母である人見百合子は、自分の魂と引き換えに、あんたのことをあたしに託したのよ」

「そんな…そんな…………」

 同じ言葉を繰り返し絶句する私を気にせず、百合子さん──いや、ジャナは礼拝堂を見回した。

「ここ、面白いわね。建物自体はロシア式なのに、中はカトリック様式ときてる。ロシア正教なら中にイコンはあっても、偶像崇拝はしないから、こんなキリスト像は置かない。プロテスタントはそもそも十字架以外何も置かないし……あんた、何か聞いてる?」

 混乱した私は、たずねられるままに答えた。

「ここは元々ロシア人のお医者様が住んでいらしたんです。でも、そのあと色々と持ち主が変わったってお父さんが言ってました」

「そう。でもまあ、腐っても教会だわ」

「どういうことですか?」

「目くらましの役には立っているって言う話よ。この街までは嗅ぎつけたようだけれど、奴らからは私の姿が見えていないようだわね。手当たり次第フェーンを吹かせてる」

「奴ら?」

 ジャナは尋ねた私を振り返った。

「……昔、契約した魂を一つ天上に逃がしてしまってね。悪魔の規範を破ったものだから、地獄の連中に追われてる身なんだよ」

「追われる?」

「見つかったらあたしはたぶん八つ裂きにされるだろうね」

「そんな……」

「さあ、どうするの? 正体が割れた以上、あたし達は結論を出すべきだわ」

「結論って」

「悪魔のこのあたしは契約を守るために、これからもあんたと暮らしていきたい。少なくとも、今あたしを見つけ出そうと躍起になっている連中のほとぼりが冷めるまではね。ただし、そのためにはあんたは人見百合子の死を両親に伏せ続けなければならない」

「百合子さんの魂は……」

「悪魔と契約して魂を差しだしたんだ。もう天上へはいけない」

「そんな……私のせいで……?」

「そこは、気にするところじゃないよ、。人の願いなんて勝手なものさ、あんたの叔母は勝手にあんたの無事を願った。あんたが気にすることじゃない」

「でも!」

「あたしだって好きであんたを守る訳じゃない。万理愛なんて名前も最悪ね。二度と聞きたくなかったのに」

「え?」

「それはこっちの話、ともかく、さあ、どうするの?」

「嫌だと言ったら?」

「それでも、あたしは契約通り、あんたを守るしかないわね。百合子が依頼された手紙の内容はあんたの両親が戻るまで、あんたの面倒を見てほしいというものだった。つまり、それを引き継いだあたしは、あんたの親が帰ってくるまではあんたを守るってこと。知ってる? 悪魔にとって、〈契約〉とは絶対なの、それが無ければ無軌道な地獄の世界は、あっと言う間に目茶苦茶になるから。まあ、天使達も〈約束〉って物が絶対らしいけど。どっちも破るのなんて、人間ぐらいね──話が逸れたわ。ともかく、ここを追い出されたら、すぐに奴らに見つかって、あたしは今度こそ八つ裂きにされるでしょうね」

「そんな……」

 戸惑うばかりで会話が前に進まない私に、ジャナはうんざりした声を上げた。

「そんな、そんな、そんな。あんたは本当にそればっかりね。それが口癖なの?」

「違います!」

 ぼろりと、涙がこぼれ落ちた。

 お父さんはいない。お母さんもいない。叔母さんは死んでしまって、大好きだと思っていたこの人は悪魔だった……。

 私は顔を上げて、今日生まれて初めて祈ったキリスト像を見た。

 相変わらずその像は、ただの、気味の悪い、生々しい彫刻にしか見えない。

 悪魔がいるのだから、神様もいるのかも知れない。

 涙で視界が滲み、もうそれすらよく見えない。

 でも、きっと駄目だ。こんなお祈りの仕方も分からない、礼拝堂を怖い、聖像を気持ちが悪いと思ってしまう私のことなんて、神様が助けてくれる訳がない……むしろ、バチが当たるんだ。こういうのを天罰っていうのかな。

 手の甲で涙を拭い、今度はジャナを見た。

 私を助けた悪魔は、降り注いだガラス片に傷だらけになっている。

「何?」

 しげしげとジャナを見る私に、彼女は不機嫌そうな顔をした。

 同じ百合子さんの顔なのに。 

 叔母として優しく微笑んでくれていた時とは、まるで違うのだ。


 この人は悪魔なんだ。


「あー、痛った」

 ジャナはまた血の噴き出した頬の傷を親指で拭っている。


 悪魔だけれど……。


 その頬の傷を伝い落ちる赤い血に、私は思った。

 この人を、放り出して八つ裂きにされところなんて見るのは嫌だ。

 私にとってとは、一緒に楽しい時間を過ごした、さんでしかない。この〈悪魔〉を放り出して地獄からの追っ手に八つ裂きにさせることは、とても出来そうになかった。

 悪魔の手助けをするなんて、私は地獄に落ちるのかも知れない。でも、もう、悪魔に助けられた私にはきっと、それがふさわしいのかもしれない。でも……。

 迷った末、私は弱々しい声で、こう言うのが精一杯だった。

「考えさせてください」

 しばらく無言で睨みつけても、私の瞳が揺るがないのを認めると、ジャナは言った。

「わかった。結論が出るまで、あたしはここに居る。それでいいわね?」

 

 私は、黙って頷く他になかった。


   ◉


 小さな、とても小さな頃。

 私はよく百合子さんに遊んでもらっていた。

 百合子さんの家にお泊まりにも行って、一緒のベッドで眠ったりもした。

 どうして忘れていたんだろう。

 そのぬくもりを。

 私は今になって思い出していた。

 百合子さんは子守歌も歌ってくれて、私は一緒に歌った。


 そう、私は、歌が全てだと思っていたのだ。


 だから、私は両親との同行を断り、一人で歌の道に進むことを決めたのに──


 けれど。


「これは、私のわがままだったんじゃないかな。私が、ひとりで日本に残りたいなんて言い出さなければ、百合子さんは飛行機に乗り事故に遭って死ぬことも、悪魔に魂を渡すこともなかったんじゃないかな……」


 頭の中に、後悔があとからあとから溢れかえる。

 その夜、私は、ぼろぼろと泣いた。


   ◉


 翌朝、私は泣き腫らした顔で、ダイニングキッチンへと降りていった。

「おはようございます、ジャナさん」

「おはよう、万理愛」

 ジャナは私の顔を見て、ニヤリと笑った。

「あなた今、困っているでしょう」

「え?」

 意味が分からない。

 迷っては居るけれど、困るとはちょっと違う。

 するとジャナはこう続けた。

「昨日、万理愛が出掛けてる間に洗濯物を置きにいったら、あんたの机の上でなんか四角いものがポロンポロンいってるじゃない? 見れば、表に文字が次々浮かんできて……」

 そこで初めてジャナの言っていることを理解し、私は青くなった。壬朋が打ち明けた化け物の話を、全てこの悪魔に見られていたのだ。

「私のスマホ! 見たんですか!?」

「スマホ? っていうの? だって勝手に流れるんだもの、見るでしょ、そりゃ」

「見ないでください!」

「ねえ、まだ私をここに置くか決めかねてるんでしょう?」

「…………」

「だったら取引だ。あたしが壬朋を助けてあげるかわりに、あんたは私と両親が戻るまで一緒に暮らす。と言うのはどう?」

「壬朋ちゃんを助けられるんですか?」

「さあ? それはやってみないとわからないけれど。どうする? それともまた、あの礼拝堂に籠って、お祈りでもする?」

 さあ、どうするの? とジャナさんは目で訴えてくる。

「あんたの魂を取るわけでも無し、あたしが失敗すれば放り出せば良いだけじゃない。何を迷うことがあるの?」


 そうなのだ。

 私はもう、踏み出している。


 今更、ジャナを追い出して、保護者である百合子さんの死を両親に報告して、夢を捨てて海外に逃げて──それでどうなるというのか。

 それであるならば、私は、今この悪魔を保護者として迎え入れ、壬朋を助け出して、挫けかけていた夢をもう一度追いかけた方が、ずっと──そうだ、ずっといいに決まってる。


 私は覚悟を決めた。


「ジャナさん」

「何?」

「壬朋を助けてください」


 私がそう言うと、ジャナの口角は見る間に上がっていった。


「お前の願いは聞き届いた」


 ああ、これが、悪魔の嗤い。

 私は、ぞっとするほど美しいジャナのその微笑みに、魅入ってしまっていた。

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