第1章 傷(2)

 壬朋の家は、駅から少し離れた静かな住宅街にある高級マンションだ。

 エントランスで、すっかり覚えてしまった壬朋の家の番号を押す。

 意外にもインターフォンに出たのは、壬朋のお母さんだった。

 というのも、壬朋の家は母子家庭で、彼女のお母さんは新聞記者として働いていると聞いていたからだ。

 私も塾の行き帰りに迎えに来る、壬朋のお母さんの姿を見たことがある。いつも素敵なパンツスーツで、これぞ働く女性、といった感じの人だった。

「あ、あの。壬朋ちゃんはいますか?」

「あら、人見さん。壬朋は、いまちょっと……」

 案の定、断られ掛けたので、私は必死にお見舞いの品をアピールした。

「その、お見舞いを持ってきたんです! あの、良かったら二人で召し上がってください。本当に、これ、お届けに上がっただけなので……!」

 あわあわと慌てる私に、壬朋のお母さんは憐れんだのか、どうぞ、と言って、エントランスのドアを開けてくれた。

 エレベーターを上がり、最上階のフロアへ着く。

 その角部屋の玄関チャイムを鳴らすと、顔を出したのは、やはり壬朋のお母さんだった。

 いつもスーツ姿しか見たことのなかった人が、珍しくスウェットの上下を着ていて、いつもならきちんとセットされているショートヘアも乱れていた。

 壬朋のお母さんは少し疲れた顔で、それでも私と目が合うと、微笑みを返してくれた。

「お見舞いに来てくれたのね。ありがとう」

「おばさま、壬朋ちゃんは大丈夫ですか? というか、おばさまも大丈夫ですか?」

「ありがとう人見さん。よかったら、上がってくれる?」

「え? いいんですか?」

 私は、靴を脱いで揃えると、壬朋のお母さんの後について家へと上がった。

 いつも綺麗に片付けられている玄関には、壬朋のお母さんの手によって花が生けられているのだけれど、今日は心なしかその花も元気がない。しばらく水を取り替えていないのだろう。傘立てには女物の傘が二本立てられており、本当に二人だけの家族なんだな、と、改めて感じた。

 廊下には壬朋の小学校の工作や、メッセージカ―ドが賑やかに飾られている。きっと仲の良い親子なんだろうなと思いながら、壬朋のお母さんの後をついて行く。

「壬朋、学校ではどうでした?」

 廊下を歩きながらそうたずねられ、スマホの連絡が途絶えるまでを振り返ってみた。普通でした、としか答えようがなかった。

 突きあたりの壬朋の部屋の前まで来ると、壬朋のお母さんはドア越しに中へと声を掛ける。

「壬朋。人見さんよ。心配してきてくれたの」

 すると中から、壬朋が応えた。

「万理愛ちゃんが?」

 ドアの向こうで、思案する気配が感じられる。

 私は思わず壬朋のお母さんと顔を見合わせた。

「ええそう、人見さんよ。どうする? 入ってもらう?」

 その問いかけにしばらく考えて、壬朋が応えた。

「うん……万理愛ちゃんだけ」

 ガチャリと内鍵の解錠する音がして、ドアは少しだけ開いた。

「壬朋ちゃん?」

 中を覗けば部屋の中は電気がついているのに、カーテンがしっかりと閉め切られており、何日も開けられていない部屋特有の空気がこもっていた。

 私が中へ入ると、壬朋はまた、鍵を掛けた。

 いつもは赤い丸眼鏡をしている壬朋が、今日は裸眼だった。

 定番の編み込みお下げも、今日はおろしたまま。

 二人でベッドへ並んで座る。

「壬朋ちゃん大丈夫? ってわけ、ないよね。重病というわけでもなかったみたいで安心した……ところでいったい何があったの?」

「万理愛ちゃん……」

 それまでこらえていた壬朋の不安が、大粒の涙と共にあふれ出した。

「万理愛ちゃん、私……私……」

 吃驚した私は、慌てて部屋の中のティッシュボックスを探し出し、壬朋へと差し出す。

 トップで入学したあの頭の良い壬朋が、こんなにも取り乱すなんて。

「ありがとう」

 しばらく嗚咽を漏らしていた壬朋は、ティッシュを受け取ると涙をふき、やがて呼吸を整えると、枕元のスマホを手に取った。けれど、放置されていたため電源が入らない。壬朋が充電コードを差すと点灯して、私からのメッセージが次々に画面に浮かんだ。

「連絡、くれてたんだ。ごめんね」

「ううん、いいんだよ。でもスマホをどうするの?」

 壬朋はメッセージアプリを立ち上げると、トトと指先をすべらせた。

 そのスマホを壬朋は私に差し出す。。

 そこには私宛に打たれたメッセージで、こう書かれていた。

『母さんに話を聞かれたら困るから』

「ああ、そっか」

 急いで飛び出してきたから、私のスマホは自宅だ。

 今頃デスクの上で、ポロンポロンと壬朋からのメッセージを受け止めていることだろう。

 そうして壬朋は。

 自分に起きたことの一部始終を、メッセージに打ち込み始めた。


 その内容はこうだった。


 壬朋はその朝、いつも通りに登校し、学園前駅に到着したという。

 ところが、雑踏に紛れて駅の階段を降りていると、突然その右足を、ぐん、と、何者かに取られたらしいというのだ。危うく前を行く人の背中へ倒れ込みそうになったそうだ。

 吃驚して足元を見ると。

 ── ……え? 糸?

 学校指定の黒いソックスへ、めり込むように細い一本の銀糸が足首へと巻きついていた。

 周囲の通勤客達は舌打ちしながらも、不意に立ち止まった壬朋を避け、次々と階段を降りていく。

 次の電車が来るまでの数分間、ひと気の切れた階段に壬朋はかがみんだ。

 ──あまり人がいない今のうちに早くしないと……。

 銀糸は、壬朋の足を引っ掛けたのみならず、いったいどうしたものか、ぐるりと足首に巻きついてしまっていたらしい。

 やけに粘つくけれど蜘蛛の糸にしてはずいぶん丈夫で、けれど釣り糸よりも細い。

 急いでいた壬朋は、その糸がどこから来ているのか確かめもせずに、何とか糸をほどききると、今度は糸が指先に絡みついてしまったという。

 ──しつこいな、もう。

 周りを見回せば、駅階段の壁には建物を支える鉄筋が露出しており、鉄筋には補強のための鉄柱が対角線に組まれていた。

 壬朋はそこで鉄柱にくるくると銀糸を巻きつけ、指に絡んだ糸はようやっと外れて上手い具合に鉄柱へと移すことができた。

 ──よかった……。


 その時。


 ざわざわと大勢の人の声が聞こえたのだという。

 雑踏のざわめきではない。

 まだ電車がくる時刻ではないため階段に人通りはまばらだ。


      ヨイショ、ヨイショ。


 聞こえてくるのは、どうやら何か、声を合せての人の掛け声のようだったらしい。


 ──?


 壬朋は怪訝に思いながらも階段を降りて、駅を出る。

 その直後。

 メリメリと糸を繋いだ鉄柱から引き攣れて、駅階段が崩れ落ちたのだ。


『信じてもらえるか分からないけれど』

『たぶんあれは』

『化け物だと思う』


 とメッセージを打ち終え壬朋が顔を上げた。

 その瞳は不安でいっぱいだ。


「信じるよ、壬朋ちゃん」


 私は思わずそう言ってしまった。

 もちろん完全に信じているというわけではない。

 けれど私には、こんなにも怯えている壬朋に、そんな馬鹿なと突き放したことを言う事なんて絶対に出来なかった。

 安堵した壬朋の瞳にまた涙が滲む。

「あと、これ……」

 そう言って、壬朋は履いていた薄手の靴下を脱いで足首を見せた。


 そこには糸の痕が真っ赤な線となって、くっきりと、刻み込まれていたのだった──


「それじゃ、壬朋ちゃん、またくるね」

 話を終え、手を振って壬朋と別れると、壬朋のお母さんに何か聞かれたらどうしようかと、ハラハラしながらドアを閉じた。

 ところが、部屋を出た私に、壬朋のお母さんは何にも聞いてはこなかったのだ。

「ありがとう人見さん。よかったらお茶をお出しするわ」

 話があるときはきっと壬朋は自分から話してくれる。

 壬朋のお母さんは、きっとそう思っているのだろう。

「人見さん、持ってきてくれたのは無花果のコンポートだったのね。切ってくるから少し召し上がっていって」

 あの、キッチンに漂っていた美味しそうなコンポートの香りをおもいだし、思わず私は頷いてしまった。

 居間のソファに通され、しばらくすると、壬朋のお母さんがトレイに紅茶とコンポートを載せてもどってきた。

 ところがトレイを持つ手の指には、バンドエイドが巻かれ、真新しい血が滲んでいる。

「指、大丈夫ですか」

「あら、お恥ずかしい。ちょっと考え事をしながら切っていたものだから、うっかり指先を怪我してしまって」

「良く切れる包丁なんですね」

「そうなの。私の嫁入り道具の包丁で、母が持たせてくれたんだけれど、なんでも人間国宝の刀鍛冶が、刀と同じ材料で打った包丁らしいの」

「ああ、それは、確かにすごく切れそうです……」

 思わず自分の指先を切るイメージが頭をよぎり、首をすくめる。

「あの娘、もう何日も学校へ行こうとしないの、食事にも出てこなくて」

 壬朋のお母さんは、そこで緊張の糸が切れたのか、ポツポツと私に、心の内を話し始めた。

「怖い。怖いの一点張りで……駅で起きた事故のショックだとは思うのだけど。なにせあの娘のすぐ後ろで階段が崩れ落ちたものだから。あの事故では何人かの方がお亡くなりになって、壬朋も現場に居合わせて、惨い姿を見てしまったんだと思うのよ」

「…………」

 私は、何も言えない。壬朋に堅く口止めされているのだ。

「本当はもう仕事が詰まってきてしまっていて……でも様子のおかしいあの娘を置いて家を出て、何か間違いがあったらと思うと取材へも行けず、心配で夜も見守っているんだけれど──」

 すっかり恐縮して話を聞いている私に気がついて、壬朋のお母さんは我に返った。

「あ、あら、ごめんなさいね、こんな話。人見さんに聞かせても、困ってしまうわよね」

「いえ、話すだけで楽になることって、ありますから」

 そう言うと、、壬朋のお母さんは、弱々しく、笑った。

「ありがとう、人見さん。また是非いらして」

「はい、また来ます」

 私は頭を下げると、壬朋の家を後にした。

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