第1章 痕(1)
私、
なぜなら苦労してやっと入れた音楽系の学園で、見事になんというか、その、私は立派な鼻つまみ者? に、なってしまったからだ。
クラスメイトが怖い。
先生が怖い。
ともかく怖い。
「人見さんって馴れ馴れしいんだね」
普通にしていたら、笑顔で、そんなことを言われた。最初は冗談なんだと思っていたら、違っていた。言葉通りの悪口だと気がつくまでしばらくかかり、気づいた頃にはもう、クラスの
この学園は中等部から大学までの一貫校だ。
つまり先生も生徒もお馴染み様だけの世界がすでに出来上がっていて、高校から入学した私は、まるで仲間はずれ。
先生に至っては、私がクラスメイトを差し置いていい成績を出したら「聞いてないわよ!」と、私を指導室に呼び出してヒステリックにわめき散らす始末だ。
学園は生粋のお嬢様、御曹司も多い。
そうではない私はともかく浮きまくり──すっかり萎縮して、気がついた時にはもはや敬語でしか人と話すことができなくなっていた。それがますます人を遠ざけていることはわかっているのだけれど、もはやこの話し方は治せない。
今となっては海外に赴任した両親へついて行けばよかったと激しく後悔している。
私は、歌が全てだと思っていたのだ。
だから、私は両親との同行を断り、一人で歌の道に進むことを決めたのに──
兄弟のいない私は、幼い頃から、寂しくないようにと音楽を与えられて育ってきた。小学校に上がって音楽の時間に歌を褒められ、合唱団を勧められた。入ってみたら、そこで私に仲間ができた。その仲間たちと合唱コンクールで優勝した時、歌こそ私の全てだと思ったのだ。
合唱団のみんなも応援してくれて、ただ一人やっと入った学校だったのに……
私はすっかり、希望をどこかに落としてしまっていた。
そんな時だった、私が叔母の──百合子さんと出会ったのは。
はっきり言って、今、私は百合子さんに溺愛されている。
百合子さんは、私の両親の代わりに保護者になるべく、フランスから帰国してくれた父の妹さんだ。
確か四十代になったばかり。独身で、優しくて、お料理が上手で、ガーデニングが趣味──だとおもう、多分。なぜなら、うちの放置された温室を見て、使ってもいい? と、目を輝かせていたからだ。
そもそも、子供ができない体質の百合子さんは、まだ日本にいた頃、幼い私をとても可愛がっていてくれたらしい。きっと自分の娘のように思ってくれているのだろう。
学園生活ですっかり参っていた私は、今では完全に彼女に甘えてきってしまっている。
「万理愛ちゃん、ご飯ができたわよ」
朝、目が覚め、階段までただよってくる美味しそうな匂いに、さらにはっきりと目が覚める。
今日は、フレンチトーストだ。この前みたいに、シナモンとメープルシロップも用意してくれているに違いない。
「おはようございます、百合子さん」
ダイニングキッチンを覗けば、思った通りの食卓に、ミモザサラダと、カフェオレまであった。
いつもならこれで元気いっぱいになれるのだけれど……
「どうしたの、万理愛ちゃん。元気がないけど」
浮かない顔の私に、百合子さんが聞いた。
「それが、
壬朋──
その壬朋と全く連絡がつかないのだ。
「あらぁ、壬朋ちゃんが?」
壬朋のことは、百合子さんも知っている。うちへも何回か遊びに来ていた。
「うん……いったいどうしたんだろう」
「嫌われちゃったかしら?」
百合子さんが冗談めかしていう。
けれど、その言葉は孤独に
「そっ、そんなこと言わないでください!」
思わず大きな声が出る。
「ごめんごめん、万理愛ちゃん。」
百合子さんはびっくりした顔をしてから、いつもの蕩けるような笑顔になった。
百合子さんは私が孤立していることを、全く知らない。言えるわけがない。
「そうねえ。まあ、一日くらい返事の出来ない時もあるんじゃないかしら」
「そうですよね。ごめんなさい、私こそ……」
少し気まずくなって、私は食事をすると、早々に学校へと向かった。
近頃はなんだか乾いた強風がやたらと吹いて、
もう五月も終わりだ。春風一番と呼ぶには遅すぎるし、台風にしては早すぎる。
「嫌な風!」
喉を痛めては一大事だから、私はマスクを取り出してつけた。
いつもの電車に乗り、学園前駅で降りると、なんだかホームが混雑していた。
駅員が改札からの降り口を案内している。
どうやら駅のいつも利用している階段が崩れ落ちたらしい。
反対側の出口に迂回させられて、踏切を渡って学園へ向かった。
そんなことより壬朋だ。
演劇科の壬朋のクラスへ行って、話をしよう。
私が何かしてしまったなら、ちゃんと謝って……そして……。
けれど壬朋は、クラスにも姿がなかった。
朝のホームルームが始まるまで、壬朋のクラスの前で粘ったけれど、彼女はついにやって来なかった。
昼休み、もう一度勇気を出して、壬朋のクラスを訪れる。
やはりいない。
そこで私は、意を決して壬朋のクラスにいた人に声をかけた。
「あ、あの、すみません」
「はい?」
声をかけたら、ドア側の席の女子はすぐに振り返ってくれた。
「あの、壬朋……深谷壬朋さんは、今日来てますか?」
「深谷さん? 今日はお休みみたいですよ」
屈託のない笑顔で答えてくれる。自分のクラスではまずしてもらえない対応だ。
「そうですか……ありがとうございました!」
私はお礼を言って、教室を後にした。
今すぐ壬朋にメッセージを送りたかったけれど、学園内へのスマホの持ち込みが高等部までは禁止されている。それに、壬朋は具合が悪くて返事が遅れただけかもしれない。けれどそれならそれで心配だ。風邪を引いた時も壬朋はメッセージをくれていたのに、それもないなんて。
午後の授業を終えたあと、ピアノを持っていない私は練習室でレッスン。それも終えた私は壬朋を心配しながら、帰りも遠回りして混雑する階段を抜けて電車に乗る。
朝から吹く風は、夜になっても吹き荒れていて、電車を揺らすほどだ。
電車は強風に徐行まで始める始末で……。
「本当に嫌な風」
おかげで帰りが遅くなってしまった。
帰宅すると、百合子さんが夕飯の支度をして私の帰りを待っていてくれた。
ドアを開けると、いい匂い。
今夜はチキンのクリームシチューだ。
百合子さんが木製の取っ手が両脇についた黄色の
サラダはシンプルにレタスがメインのサラダで、モッツアレラチーズとトマトが散らされている。
軽くトーストしたライ麦パンのスライスをテーブルに置くと、百合子さんも席に着いた。
「通学に使ってる駅が崩れたんですって?」
「え、あ、そうなんです。学園前駅の東口階段が突然、崩れてしまったらしくて、今日は、西口を回って帰ってきたんですよ」
「酷い事故だったらしいわね。二、三人、亡くなってるみたい」
私は、思わず口に運ぼうとスプーンですくったシチューを皿へと戻してしまった。
「ええ!? ホントですか?? 壬朋ちゃんのことばっかり気になってて、全然分からなかった……そういえば、青いビニールシートで駅が覆われてました」
「昼のテレビでやってたわ。手抜き工事の疑い──とか言ってたわね。もともと沼地を埋め立てたエリアだから、地盤が緩かったんですって。あちこちのテレビ局でやってたわよ」
「百合子さん、ニュースお好きなんですね」
私はしみじみとキッチンに置かれたテレビを振り返る。
今流れているのも、ニュース番組だ。
「ええ、おもしろいわね。いろんな事が流れてくるわ。前はこんな物無かったから」
「え、テレビ無かったんですか?」
そこで、百合子さんは何故か固まってしまった。
「百合子さん?」
「ええ、そうなのよ。それでも不便はなかったの」
にっこりと微笑まれ、私は特に気にせず、またシチューを口へと運んだ。
「ふーん」
ともかく、百合子さんの料理は何もかもが美味しいのだ。
結局、その夜も壬朋からは連絡がなく──
「もうお見舞いに行っちゃおうかなあ」
と、毎朝、家を出る時にぼやいてはいるのだが、相変わらず壬朋は学園へ出て来ないし、連絡もない。
つらい。
寂しい。
「私、嫌われちゃったんですかねぇ??」
壬朋が登校しなくなって三日目。
学園から帰ると、私は涙目になってキッチンへと駆け込んだ。
そこでは百合子さんが何かを作っていたようだ。
甘い香りが漂っている。
転がるように帰ってきた私を百合子さんは呆れ顔で出迎えた。
「まだ三日でしょう?? いったいどういう思考回路なの?」
「百合子さんが嫌われたかもって言ったんじゃないですかぁ」
「うふふ。そうだったわね。そうしたら、ハイこれ」
百合子さんは、冷蔵庫から取り出した四角い容器をテーブルの上に置いた。
「これなんですか?」
「
なんと、いつも出がけにつぶやいていた私のぼやきを、拾ってくれていたのだ。
「百合子さんありがとうございます!」
すると得意になったのか、百合子さんはとうとうと語り始めた。
「無花果はね、整腸作用があるから腸内環境を整えて、免疫を上げてくれるのよ? 熱があるなら冷やして食べれば喉に気持ちが良いだろうし、熱がないなら温めて食べればいい。でも、もし腹風邪だったら食べちゃ駄目。そもそも無花果は古来より不老長寿の果実と呼ばれていて──」
「百合子さんすごい……」
突然始まった無花果の講釈に私は驚く。
百合子さんがそんなことを話したことは今までなかったので。
けれど、このお話は長そうだ。お聞きしていては、お見舞いに行くには遅くなってしまう。
「本当にありがとう百合子さん! お見舞い、行ってきます!!」
制服のまま着換えもせずに、私はコンポートが入った容器を受け取ると、用意していてくれた紙袋にしまいこみ、まだまだ続きそうなお話を一方的に切り上げてキッチンを飛び出した。
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