7話 淀み始めた日常と決断
昨夜は、半日の有給で多少憂鬱ではあったものの終わってみればあっという間だった。きっとリフレッシュできたのが大きいのだろう。今週は気持ちを新たに穏やかに仕事ができるだろう。
そう思っていた。しかし現実は甘くなかった。前後左右に押しつぶされさらに酷く淀んだ空気の満員電車に揺られていると少しずつ俺は虚無を感じ始めた。それから言われるがまま主体性もなくただ仕事をこなしていく。そんな生活を数日繰り返せば、リフレッシュできたと思っていた心は元通りの灰色に淀んでいった。あの時感じた解放感は記憶には残っているが実感はなくすっかり過去のものへと変わってしまった。
「加須さんちょっと顔色よくなったと思っていたんですけどまた最近悪くなってません?」
こうして会社で後輩に心配される始末だ。
「大丈夫だよ。」
他の仕事をしている会社員を見渡しても生きているんだか死んでいるんだかよく分からない人間は少なくない。ただそうではない人も多少はいてまさに俺の目の前にもその1人がいるわけだ。
「熊谷さんは今日も元気そうだね。何か要因とかあるの?」
「えっと、その毎日先輩に…」
「ん?ごめん。聞き取れないんだけど…」
何かごにょごにょと言っているが疲れているからかうまく聞き取れない。仕事のモチベーションはどうしようもないかもしれないがもし疲れない秘訣があるなら教えてもらいたいところなのだが。
「いえ、なんでもないんです。そのやっぱり仕事の後の1杯のためかなと。今日も一日頑張ったって思える瞬間って最高じゃないですか。この一瞬のために生きてるんだって思えるし」
「そんなもんかな?」
「そうです!」
(断言)とつきそうな言いっぷり。お酒の良さが今一分からない俺にはなかなか理解できない考え方かもしれない。ただ「この瞬間のために生きてる」この言葉が俺には刺さった。彼女は簡単そうに言っていたが、俺はそんな瞬間を感じた記憶はない。俺は何のために生きているのだろうか。俺の日常に生を感じる瞬間なんてあるのだろうか。そんな日常が俺の何かをすり減らしているのではないだろうか。
「なんだか難しそうな顔してますけど大丈夫ですか?」
どうやら眉間にしわを寄せ考えこんでしまったようだ。
「ああ、いや、ありがとう。参考になったよ」
自分を見つめなおさないとこの日常は変わらないな。そう感じながら仕事に戻った。
時刻は夕方に差し掛かり、業務は終盤戦を迎える。しかし今日は思ったように仕事が進まない。定時が迫る中、雲行きの怪しい仕事を前にすると徐々に余裕がなくなり冷静さを欠いていく。今している業務は明日までに処理をしなければならない。俺はリフレッシュをするためにコーヒーを買いに席を立ち自販機へ向かう。窓から見える空は今日もどんよりとした曇り空だ。けれど雨も降らなきゃ雪が降る気配もない。中途半端で気が重くなる天候だ。まるで自分を見ているような気がしてくる。
「また行きたいな。あの雪景色をまた見にいきたいな」
俺は何も考えずぽつりと言葉が漏れる。これは深層心理というやつだろうか。あの日以降日に日に考えることもなくなっていた景色が急にまた見たくなった。ふと今日の熊谷さんとの会話を思い出す。
「生を感じる瞬間か…」
ぼんやり家で寝ていてもしかたないか。週末にまたあの場所に行こう。何か変わるかもしれない。急な決断だが、これが独り身の強みだな。そんなことを想いながら俺は自身のデスクに戻った。
少し立ってふらふらと歩いたからだろうか。身体に血液が流れ重かったからだが少し楽になった気がした。また週末に楽しみができたからだろうか。マイナスに毒されていた思考がクリアになった気がした。かといって仕事がすぐ終わるわけではなかったのだが、想定していたよりも早く片づけることができた。行き詰っているときは素直に仕事を止めて別のことを考える。これが案外近道なのかもしれない。俺はデスクを整理して退社した。
退社してからは考えることはもう週末をどう過ごすか1択である。と言ってもどこで観光をしてとかそんなたいそうなことではなくて何時に家を出発して何時の電車で乗り換えてみたいな大枠だけだ。現地で何をするかはその場のノリで決めようと考えている。きっと何か定められたスケジュールで行動しても今自分が必要な何かは見つからない。そう直感が告げている。今回も前回同様偶然の産物を堪能したい。とは言ったものの場所が場所なだけあって電車の本数は限られている。前回のように行き場を失くしてしまう事だけは避けなければならない。それだけは遵守だ。
「それはそうとまずは明日、仕事をがんばって早く終わらせないとな」
俺は一人街灯がぽつぽつと灯っただけの路地で一人呟いた。
翌日。誰に向けてでもない決意表明の通り、俺は仕事を無事終わらせた。時間は定時を少しすぎたくらい。1週間の疲労感を感じつつも枷から外れたような解放感も覚える。
「加須さんいつもの週末よりいきいきしてますね。これから何かあるんですか?」
どうやら熊谷さんも仕事を終えたようで俺と共に退勤をする。
「まあ、大したことじゃないんだけど明日ちょっと出かけようかなって」
俺と彼女は下りのエスカレーターに乗る。
「いいですね。どこいくんですか?」
「うーん…どこだろう」
「何ですかそれ」
「俺もよく分からん…」
「変な先輩。まあいつも変ですけど」
「それは酷くないか?」
エレベーターは1階に止まり俺達はビルの自動ドアを抜け外に出る。この辺に駅はいくつかあるが彼女と俺はどうやら同じ駅を使うらしい。もう一緒に働いて1年は経ったが実はこうして一緒に帰るのは初めてだったりする。
「なんかこうして一緒に駅に歩いているのが変な感じです。ふだん加須さんは、仕事が終われば他のことは我関せずって感じだから」
言われてみればそうかもしれない。
「でも今日の加須さんはなんかいつもより柔らかい雰囲気がします」
自分ではよく分からないが彼女が言うのであればそうなのだろう。どうやら俺は明日のことで相当浮かれているのだろう。こうして一緒に駅に向かうことになったからにはしょうがない。いつまでも聞き上手な彼女に甘えていてはいけない。俺はそう思い
「熊谷さんは何か週末するんですか?」
「私ですか?私はこれからパッと飲んで週末は映画とか見て過ごします!」
「あ、この前言っていた仕事終わりの一杯的な?」
「ですね」
こんな軽い雑談、けれども今までしたことのない帰り道の雑談は会社の最寄り駅に着いたことで終了する。ここからは進行方向は反対側なのでお別れだ。
「じゃあ、お疲れ様です。よい週末を」
俺は熊谷さんにそう告げ彼女の反対側へ歩こうとしたとき
「あ、あの加須さん。そ、その」
彼女が何かを言おうと俺を呼び止める。
「どうしました?」
俺は振り返る。
「そ、その今度良かったら…」
「ん…?」
彼女は何かを言いたそげな様子だが口を閉ざしてしまう。
「えっと、何でもないです。今度言います」
「お、おう?」
「お疲れ様です。良い週末を」
彼女は俺に手を振って自身の乗る電車のホームへ歩いて行った。なんだったんだろう。俺はよく分からないままぽつりと取り残されたのだった。
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