6話 現実に戻る少し前
「さて帰るとしますか」
宿から外に出た俺はこれから会社に行くことになるというのに穏やかな気分でいられた。普段ならば自分が自分でいることすら分からなくなるような灰色な日常に気がまいってきていたはずなのに。冷たい空気が肌に触れ、そして息を吸うとその寒気が身体を冷やす。そんな環境の中でも不快感に思うことは無かった。新鮮で透き通ったいい空気だとすら感じる。
俺は、宿から近隣を少しだけ歩くことにした。道は昨日降った雪がまだ残っていてふかふかしている。歩みを進めるたびに「ぎゅ、ぎゅ」と雪がつぶれていく良い音を鳴らす。しかしだんだんと車が通る道にでると道路はびしゃびしゃに濡れており雪はあまり積もっていない。どういうことかと思ったらほぼ等間隔で道路から水が噴き出ていた。水の勢いは可愛いものだが、止まることなく出続けている。この小さな可愛い噴水機の量が多いこともあって大きな水たまりがあちこちにできている。なるほど。俺は少しだけ考えて納得する。水を出し続けていれば雪は積もらないし下手に凍ることもない。雪国の知恵というやつだ。俺は感心しながら進む。道路から放出される水の勢いは場所によってまちまちで中にはかなり遠くまで水をまき散らすものもあり
「まじかよ。トラップじゃないか」
俺は少しだけズボンを濡らしてしまった。とはいっても少しだけなのでそのうち乾くだろう。しばらく歩くと女将さんに食事中お勧めしてもらったスポットにたどり着く。
「すげぇ」
そこに広がっていたのは大迫力の雪山だ。標高1500mを超える山を雪が覆いつくす。その真白を太陽が照らし眩しく輝いていた。それは目をぱっちりと開くことができないほどだ。美しい以外の言葉が出ないほど圧巻の光景だった。俺は少しの間この場所で景色を堪能する。この場所は車の交通量も多くないためノイズを気にせずこの風景に俺は溶け込んでいく。危うく時間を忘れそうになってしまう。しかし戻りたくない欲望を振り切る。最後に写真に1枚風景を切り取って収めた。
そろそろ駅に戻らないと会社に着けなくなってしまう時刻になった。ローカル線なので1本電車を逃してしまうと致命傷どころか致死量オーバーになりかねない。俺は滑らないように慎重にけれども少し速足で駅へと向かった。なんとか電車が到着する前に無事駅に到着できた。無人ではあるが切符の券売機自体は置かれているようなので機械にお金を入れ切符を買っておく。けれども切符を通すための改札はここにはない。きっと有人の頃は切符を駅員に見せてホームに入っていたのだろう。しかし今は切符を見せる人は滞在していない。しょうがないので俺はホームへ進む。自動改札機に慣れているので切符やICカードを通さずにホームへ入ることに対しての違和感がすごいがこれもまた非日常だ。昨日の暗くそして寒い中で見たホームと今日の明るいホームとではやはり印象が異なる。駅のホームがすごく長いことに気が付いた。昨日乗った電車は2両なのだがそれに対してホームの長さは軽く5倍近くある気がする。俺は端から端まで歩いてみる。使われていない部分には屋根がなく雪が積もっている。どうやら手入れもあまりされていないようで雪に耐え抜く雑草の姿が見受けられる。一方ホームではなく街の方に目を向けるとそこに広がる景色は1枚の大きな写真を見ているかのような俺の思い描く理想の雪景色が広がっていた。さっき見た雪山の景色は、山自体の迫力を感じるものだったのに対しここからの景色は雪と共存する町全体を写したような作品のようだ。今このホームに俺以外に人がいないため、この景色を独り占めしている気がして優越感に浸った。こんな絶景があるのに多くの人はこの場所を知らないのだと思うと仕事に追われているだけの毎日がもったいないなと感じてくる。世の中知らないことばかりだな。そんなことを思っていると電車がやってきた。この電車に乗ると夢から覚めて現実に引き戻されえてしまう。しかし社会人だからしょうがない。俺は自分を納得させるためにそう言い聞かせた。だからせめて今日見たこの景色を忘れないようにいようと思った。
「また来よう」
そう心に決めて俺は会社へ向かうための電車に足を踏み入れた。発車ベルが誰もいないホームで寂しそうに鳴るとドアが閉まり電車は出発した。
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