第3話 天使様
一日の授業が終わり、学校を後にする。
陽は傾いて来たとは言え、通学路のアスファルトはまだまだ熱気を放っていた。それを建物の影でやり過ごしながら歩く。
いつも通りの一人の帰路。片村は怪我をしているのにも関わらず、部活に顔を出すと言って学校で別れた。朝は「部活がサボれてラッキー」と言っていたのにどういうことなのだろうか。もっとも、この高校の弱小サッカー部の練習はそれほど厳しい雰囲気ではないと聞いている。ただ暑い中運動をするのが嫌なだけで、部活仲間と騒ぐことは苦では無いのかもしれない。
一方の俺はと言えばこれから労働に勤しまなければならない。俺の家はいわゆる母子家庭だ。決して経済的に裕福とは言えない。父親不在の今、母親だけに負担をかけるわけにはいかなかった。家計を支える……とまでは言えずとも、自分の食い扶持と小遣い程度は自分で稼ぐようにしていた。
俺のバイト先は通学路から少し外れた先にある地元の定食屋だ。初老に差し掛かった大将とその息子だけで営んでいる小さな店だが、夕食時には満席になる地元の人たちに愛されている店だ。俺にとっても良いバイト先で、何よりも豪華な賄いが出るところが素晴らしい。
今日は客が少ないと良いな、などとバイト先への感謝の欠片も無いことを考えながら路地に入る。家と家の間を縫うように通る、人一人が通れるだけの、文字通りの裏路地。学校からバイト先への近道だ。裏路地は日が差さないぶんいくらかは涼しいかと思ったが、存外に不愉快な空気が充満していた。どこかの家で夕食の支度でもしているのか、揚げ物の匂いが鼻を突く。さらに足元のエアコンの室外機がそれを加熱し、路地全体の不快指数を上げていた。
「だる……。」
あまりの不愉快さに歩を早める。これから飲食店でバイトなのに揚げ物の匂いで気分が悪くなるなど笑い話にもならない。こんな場所は早く抜けてしまおうと前を向いた時だった。
視線の先を、金糸を纏った風が吹き抜けた。
路地を抜けた先の道路。ここからは、細長く切り取られたようにしか見えない場所。けれど確かにそこを、太陽の光を纏って輝く金の糸が流れていったのだ。
「――。」
一瞬、目を奪われ足を止める。今見たものを頭の中で反芻する。目の錯覚?蜘蛛の糸?それでも夏祭りで使った飾り付けでも風で飛ばされたのだろうか。金色に輝いていたのは光の加減?それとも――
一瞬のことだったのに、その正体が無性に気になった。なぜだか分からないが、意識がそれに惹きつけられたのだ。
とにかく、考えているだけではらちがあかなかった。正体を確かめるべく、俺は裏路地を小走りで抜ける。
そして視界が開けた先、先の金色の風が吹き抜けた方向を見る。そこには果たして……確かに、金色のソレが居た。
「人……?」
視線の先を、金糸が揺れている。陽の光を反射して光り輝くそれはあまりに美しく、日常に存在するにはあまりに異質だった。その金糸の両脇から腕が伸び、白の衣服を着た背中と長い足が見えていなければ、それが人間の髪の毛だと気付けなかっただろう。
もちろん金髪、というだけであれば特段珍しいものではない。今時髪の色を染めている人なんて沢山いるし、自分は見たことが無いだけで金髪の外国人だって居るだろう。
でも、俺はその後ろ姿に完全に目が釘付けになっていた。白い半袖シャツにスカートと見紛うシルエットの黒のショートパンツ。足元は少々無骨なブーツを履いている。少々ボーイッシュな服装だが、そこからスラリと伸びた白い手足は完全に女性のそれだった。そして何よりサラリと流れるようなその金髪。既に陽は傾きつつある時刻だったが、それだけが爽やかな朝日を受けたような光を纏っている。よほど手入れが行き届いているのか、頭上には天使の輪のような光沢が浮かんでいた。
「天使……。」
そこでふと、今朝の片村との会話を思い出した。
天使様。
最近この町で目撃されているという金髪の女性。もしかしたら、これが噂の天使様なのではないだろうか。
そう思った俺は一瞬逡巡する。しかし結局は、彼女と同じ方向へと歩き出した。冷静に考えれば街中で見かけた女性の後をつけるなど、変質者と罵られても仕方が無い行為だったが、今の俺にとっては興味と好奇心の方が先に立った。
噂の天使様がいったいどのような人物なのかという個人的な興味。天使様を見たということを片村に自慢できるだろうという打算。そして何より――
まだ天使様とはそれなりの距離がある。俺がついてきていることは気づいていないだろう。だが、彼女の顔を見るにはもっと近づく必要があった。
彼女は住宅街の方に向かっているようだった。俺や片村の家がある方向だ。もしかして近所に住んでいるのだろうか、などと考える。しかし、このままではバイト先からは離れていってしまう。
ちょっと顔を覗いたら、すぐに退散しよう。別に声をかけるつもりも無い。彼女を追い越して、一瞬振り返るだけだ。そう思って歩を早めたその時だった。
ふと、彼女の金髪が横に流れ、その姿が掻き消えた。どうやら先の路地に入ったらしい。俺はそのまま歩き続け、彼女が曲がったところまで来ると、その先を見る。そして。
「……は?」
自分でも分かるほどに間抜けな声が出た。彼女が曲がった先の路地。いや、それは正確には路地では無かった。
それは家と家の間の、壁に囲まれたただの隙間だった。しかも奥に続いているでもなく、すぐに行き止まりになっている。それにも関わらず、彼女の姿はどこにも無かった。
動揺しながらその隙間に踏み込む。やはり行き止まりになっている。周囲を見回しても人が隠れるようなスペースもない。
つまり、俺の見間違いでなければ、天使様はここで忽然と姿を消していた。
「冗談だろ……?」
さすがにこの短時間で例の記憶障害になった経験は無い。まさかこの真昼間から幽霊でも見たのか。俺は背筋に冷たさを感じながら、呆然と立ち尽くすしかなかった。
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