第2話 記憶障害

 学期始まりの全校集会が終わり、教室に戻る。前の席に座る片村が体をぐるりとこちらに向けながら盛大にため息をついた。


「校長の話、クッソだるかったな。なんであんな中身の無い話を長々と喋れるかね。」


 まあ校長の挨拶なんてどこもそんなものだろう、と苦笑いで応える。始業式、終業式の恒例行事だ。確かに冷房も無い体育館で立たされているのは苦痛だが、ただ話を聞いているだけで授業の時間が潰れると考えれば、それはそれで悪くないと俺は思っている。


「あまりにもだるかったから、ずっと周りの奴見てたわ。でもなー、居なかったな。金髪の転校生。」


 金髪の転校生。朝話していた『天使様』のことだろう。ただの冗談だと思っていたのだが、片村はは本気でこの学校に転校してくる可能性を考えていたようだ。


「お前、本気で探してたのかよ……。」


「あったりめーだろ。見ろよこの教室。夏休みでイメチェンして来る奴が一人くらい居るかと思ってたのに、この代わり映えのしないメンツ。金髪美少女のサプライズくらい無きゃつまんねーっつーの。」


 そう言う本人こそ、代わり映えしないけどな。そう口走りそうになるのを堪える。たかだか一ヶ月程度で何も変わらないのは、皆お互い様だ。

 何の気なしに教室を見回す。確かに言われたとおり変わったことは無い。クラスメイトの顔ぶれは夏休み前そのままだ。当然ながら机の数も変わらない。もし転校生で来るならあらかじめ空いた机の一つでも準備しておくだろうが、そんなものは見当たらない。

 残念ながら、金髪美少女の転校生の線は無いようだった。


 と、不意に、教室の扉が開く音が響いた。目を向ければ、そこには女性の先生の姿。片村もしかり、クラスメイト達は慌てて姿勢を正す。


「はい。日直、号令。」


 少し緊張を含んだ声。その言葉に従って日直が掛け声そし、皆がそれに合わせる。全員が着席したのを見計らうと、先生は流れるように出席を取り始めた。

俺はその光景を目の当たりにして、片村の肩をつついた。


「なあ、先生どうしたんだろうな?」


「ああ?なにがだよ?」


訝しげに肩ごしに振り返る片村。


「何がって……何で小川先生が来たかってことだよ。吉川先生どうしたんだろうな?」


 そう言って教壇の上の小川先生に目をやる。成人にしては小柄な背丈の女性教諭。年齢は確かまだ20代だったはずだ。当たり前のようにクラスの出欠を取っているこの先生は、しかし、俺たちの担任ではなく、副担任だ。本来の担任は吉川といううだつの上がらなさそうな中年男。その姿が無いということは、夏休み明け一発目から教師が休んでいるということだろうか、と訝しむ。

 

「あぁ?」


 だが、俺以上に訝しい表情を浮かべたのは片村の方だった。


「吉川……?。」


 片村のその返しに耳を疑う。


「は?誰って……吉川先生だよ。担任の。」


 他の誰かと勘違いしているのかと説明を繰り返す。だが、それでもなお片村の反応は芳しく無かった。


「はぁ?。寝ぼけてんのか?」


「――。」


 思わず絶句する。片村は冗談を言っているという風ではない。そもそも彼は俺に対して、この類いの冗談は決して言わない。だから、彼はきっと、真実をありのままに喋っているだけなのだろう。他のクラスメイトの顔を伺っても、吉川先生が来ないことを訝しんでいる様子は無い。まるで、吉川先生がこの場に居ないことが当たり前のように。


「――お前さ、また、じゃね?」


 困惑して固まっている俺に、片村がそう言った。

 『アレ』

 彼がそう指すものは決まっている。それは、俺の『記憶障害』だ。


 そう。俺はある種の記憶障害を抱えている。

 例えば、昨日まで自宅の斜向かいに建っていたはずの家が翌朝になると忽然と消えている。住人が引っ越したわけでもなければ、取り壊された形跡も無い。家族に聞けば、そこには、と言うのだ。

 例えば、今日の朝見た空き地。俺の記憶が確かならば、そこには数ヶ月前までお婆さんがやっていた駄菓子屋があったはずだ。だが、今朝見た光景はどうだ。まるで何年もそこには何も無かったかのように荒れ果てた土地があるだけ。廃墟はおろか建物の基礎一つ残ってはいなかった。

 そして、今。俺は吉川という先生がクラスの担任だったと思い込んでいた。担当科目が化学のせいか、年中白衣を着て授業をしていた。無精ひげを生やし、気だるげに背中を丸めて歩いているのが常だった。何かに悩むと鳥の巣のような頭をガシガシと掻く癖があった。そんなことまでちゃんと俺の記憶には残っている。だが、片村の反応を見るに、そんな先生は存在しなかったのだろう。全部が全部、俺の思い込みだったのだ。


 一般的な『記憶が無くなる』タイプの記憶障害ではない。『存在しない記憶がある』。単純な幻覚とも違う。過去の記憶と今の現実が一致しない。過去に起きた出来事が、本当にあったことなのか、それともただの思い込みなのか判別がつかない。それが、俺の抱えた障害だった。


「まだ夏休み一発目だぞ。大丈夫か?」


 呆れたような、それでいながら気遣うような表情で、片村はこちらの顔を覗き込んでくる。彼は俺のこの事情をよく知る人物の一人だ。俺は曖昧に頭を振って、それに応えた。「いつものことだから大丈夫」と。


小川先生が出欠を取り終え、そのまま連絡事項やら何やらを喋り始める。しかしその言葉は耳を素通りし、右から左へと流れていく。俺は記憶の中にしか居ない担任教師だった人物を思い返しながら、ぼんやりとその日一日を過ごしたのだった。

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