天使の天秤

桜辺幸一

第1話 続く日常

 一晩眠って、朝起きる。その瞬間、昨日までの現実が夢ではないと、誰が証明できるのだろう。


 普通ならば、それは記憶の連続性によって証明される。 昨日寝たベッドと、起きた時に入っていたベッドが同じ。昨日までの家の間取りと、今日の間取りは同じ。昨日確認した日付からは確かに一日だけ進んでいて、昨日までに終わらせた夏休みの宿題は昨日の夜見たそのままに机の上に積まれている。「おはよう」と挨拶を交わす家族の顔ぶれは、何年も見てきたままのそれ。冷蔵庫を開ければ、昨日飲んだ分だけ中身が減っている牛乳パックがある。

 昨日からの延長線上にある今日。それをもって、人は昨日までの出来事が全て現実であると確信するのだ。


「いってきます。」


 一部に昨日の夕食の残り物が混ざった朝食を腹に押し込んだあと、母に一言告げて家を出る。

 外に出ると、夏の終わりと言うには少しばかり元気すぎる朝日が肌を焼く。夏休みの終わり。新学期の一日目の空気。まだまだ夏は続いている。それでも頬を撫でる風は確実に熱を失いつつあった。あと二つ三つ台風が過ぎれば、秋の訪れを感じるようになるだろう。そんなことを思いながらいつもどおりの通学路を歩いて高校へと向かう。

 少し先には俺と同じ制服を来た高校生がぽつぽつと歩いているのが見えた。心なしかその後ろ姿には元気がない。まあ、今日からまた毎日学校に通うのだと思うと、少々ゲンナリしてしまう気持ちも分かる。そんな学生達の気持ちにつられてか、通学路の雰囲気もなんだか元気が無いように感じられた。朝日だけは強烈なくせに、なんだか寂しさがあるような気がする。。

 歩きながら、道脇に並ぶ家々を眺める。俺の家がある住宅街はそれなりに昔からあるはずなのだが、今は小奇麗な家が目立つ。

 もっとも、新しい家が次々と建っているというわけでもない。どちらかと言うと、古い家が無くなっていっていると言った方が正しい。家と家の間には、不自然な空き地がぽつぽつと点在している。少し前まで、そういった場所には古い家が建っていたのだ。通学路が寂しく見えるのも、そういうふうに空き地が多いせいもあるのかもしれない。

 特に暮らしにくい街だとは思わない。この住宅街を含んだ町はそれほど田舎というわけでもなく、スーパーやドラックストアなどもほど近い。バスに乗れば主要な駅にもすぐアクセスできるし、車で少し行けば都市と呼べる大きな町がある。少なくとも、この町を出て行くネガティブな理由は思いつかない。

 ……でも、だというのにこの町の人口は妙に少ないらしい。しかもこの少子高齢化の時勢の中にありながら、老人人口が少ないという形で。

 老人がこの町からどんどん居なくなっていっている。

 先も言ったとおり、この町から出て行く理由は見当たらない。けれどそれは、あくまで俺の目で見た場合、というだけだ。事実として人口が少なくなっているのなら、子供の俺では知りえない、何かしらの事情があるのかもしれなかった。


「おっす!何ぼーっとしてんだよ?」


と、後ろから軽薄な声を共に背中を叩かれる。

考え事をしながら空き地を眺めていた俺は、その衝撃に少しよろける。振り返れば、見慣れた顔があった。

 短く刈揃えられた頭髪に夏の間にこれでもかと黒く焼かれた肌。いかにもスポーツマンといった風貌。ただし好青年と言うには少しばかり軽薄な雰囲気が漂う。インドア派な俺とは真反対に居そうな奴なのに、なぜか幼馴染と言って良いくらいには長い付き合いになっている友人。それがこの男、片村晃だ。


「いや……この空き地、ちょっと前まではおばあさんがやってた駄菓子屋があったよな、と思って見てただけ。」


「あぁ?そうだったか?オレは記憶に無いけどな……いつものじゃね?」


「……かもな。」


 目の前の空き地は雑草が生い茂っている。もう長いこと手入れがされていないのだろう。当然、建物が建っていた痕跡もない。

 俺は特に執着することなく再び歩き出す。それに続くように片村も隣に並んだ。

……ふと、そこで違和感に気づく。


「え、お前、それ。どうしたんだよ?」


 先ほどは体に隠れて見えなかった。片村の左腕、手首のあたりが大仰に包帯に巻かれていた。


「ああ、これ?ちょっと部活で怪我しちまってさ。」


 片村はサッカー部に所属してる。恐らく倒れた時に手をつくか何かしたのだろう。腕を吊るほどの怪我では無いらしいが、手首はガッチリと固定されているようだった。


「大丈夫なのか?」


「おう。ただの捻挫だからへーきへーき。幸い利き腕じゃなかったしな。むしろ部活をサボる口実になって良かったわー。」


 そう言ってヘラヘラと笑う片村。ウチの高校のサッカー部は超が付いても良いほどの弱小だ。片村曰く、同好会の方がまだ真面目に練習しているとのこと。そんなだから、怪我をしたこと自体もそれほど重く感じていないのだろう。

 怪我の話もそれきりで終わり。話題は、学校がだるい、夏休みは良かった、そんなどうでも良い雑談に流れていく。


「そんなことよりもさ、お前、『天使様』の噂知ってるか?」


 夏休み中の出来事を話す最中、ふと、出し抜けに片村がそんな話を振ってきた。


「天使様?なにそれ。」


 だが、俺には全く何のことか解らない。天使……などと言われても、思い描くのはよくある赤ん坊に羽の生えたイメージだけだ。突然宗教勧誘でも始まったのかと訝しむ俺に、片村は続けた。


「何か最近、このあたりで外国人の女の人が目撃されてるらしいんだけどよ。それがとんでもない美女らしいぜ。金髪に、青い目。その見た目も相まって、付いたあだ名が『天使様』。」


 「いやー、一度見てーよなー。」などと言いながら想像を膨らませている片村。そんな彼を尻目に俺も、まだ見ぬ金髪美女の姿を想像してみる。

 今時、外国人の姿を見かけることは珍しくない。東南アジアか東アジアの人が大半だが、欧米系の人もたまに見かける。だが確かに、天使に形容されるほどの金髪を持つ人は見たことがない。金髪の美女、と言われても、想像できるのはせいぜいハリウッド映画の中の女優だけだ。


「しかもよ、その天使様、俺たちと歳がそう変わらないって話もあるらしいぜ。……どうする?もし俺らの高校に転校生で来たりしたら。」


「そんな漫画みたいな展開あるわけ無いだろ……。どんな確率だよ。」


「わっかんねーぞ?事実は小説よりもなんたら、って言うじゃん?」


 片村にしては難しい言葉を知っているな、などと思ったが言葉には出さないでおく。たしかにありえない話ではないのだろうが、それはただ「ありえなくはない」というだけだ。


「あー、クソ。英語もっと勉強しておけば良かったー!」


 想像たくましい片村と馬鹿な話をしているうちに高校が見えてきた。まだチャイムには余裕がある。俺は大きな欠伸を一つして、涙で滲んだ目を擦った。


 それが夏休み明けの第一日目。新しい学期、けれど確かに昨日から続く日常の一コマ。


そして。

俺がその日常を過ごす最後の一日。その、朝の出来事だった。

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