第1章 旅立ち

第1話 選び取るとき

 ロイ・ウォーレンは当年十九歳の青年である。

 彼はまず、孤児であった。朽ちた村に打ち捨てられていたという経歴を持ち、元王国騎士団の百人長をしていたオーク族の老人に村外れの森の小屋で育てられている。

 次に、腕っぷしが強い。流石に元騎士の指南というべきか、徒手格闘も剣の腕もそこらの山賊には遅れを取らないくらいには立つものがある。

 最後に、彼のことではないが――師父・ゴルツは肺病であった。菌が肺の全体に回り、既に神官の法術でも治療困難なくらいに悪化している。それでもロイは、少しでも苦しまないようにと薬代を稼いでいた。


 せせらぎの森――フォーエン大河の支流沿いのリバーサイド村の近隣に広がる森だ。そこには豊かな自然の恵みが実り、これでもかと危険な幻獣が蔓延っている。

 ロイは獣走竜ブルーラバーンのフレイスから降りた。

 日差しが梢越しに差し込んでいる。木漏れ日に照らされながらロイは地面に降り立ち、相棒のフレイスの首筋を撫でた。


 ブルーラバーンの大きさは往々にして五メートルの体躯に三〇〇キロの巨体、外見は獣脚竜ブルートワイバーンそのもの。それはそうだ、こいつらはブルートワイバーンを品種改良して作られた家畜竜なのだから。

 フレイスはグルル、と喉を鳴らして茂みの奥を赤い目で睨んだ。緑と青の中間のような色の甲殻が、木漏れ日を浴びてキラキラ滑るようにてかる。


 ロイは「わかってる」と答え、背中の剣を抜いた。左肩から鞘をマウントするように立てて引き抜いたのは、ブロードソードのようなデザインの一振り。片手でも両手でも扱える柄を持つ、エルトゥーラ王国式エルトゥーリアン・ブロードソードである。銘はイェルンヤクター。古エルゴン語で鉄の狩人を意味する言葉だ。

 刃渡り七十センチ強、重さは四五〇〇グラム。魔力に適合した者であれば片手でも持ち上げ振り回すことに苦労はしなさそうだが、そうでない者には持ち上げられても振るい続けることは困難な代物である。

 通常の剣が二キロ、両手剣でも四キロであることを考えれば、片手剣で四キロ半というのは随分と重量級の剣である。


 茂みをかき分けて出てきたのは、醜悪な顔をした猫のような小鬼。前傾姿勢で、かろうじて後ろ足で立てるようになった大型ネコ科動物のような印象を受ける。


「お出ましか」


 長年放置されて黄ばんだような反物を思わせる、決して綺麗とは言えない毛皮。猫の耳に、顔はやはり猫らしいが猫が持つ可愛らしい愛嬌は消え失せ、卑しい鬼ともいうべき醜さ全開の、悍ましい顔つきをしている。

 卑しい鬼ヴァルガオウガ。単体レートは五等級最低等級。それが、四体。

 やつらは三体から五体の群れで行動し、オスしかいないことから女をさらい、犯し、繁殖するという恐ろしい生態を持つ。

 極めて短い妊娠スパンで子供を出産させられる女体は半年で限界を迎え、救出しても精神的に異常をきたしていることが普通だった。

 この世で多くの幻獣の中から特に忌み嫌われる、恐るべき害意性凶悪幻獣——凶獣である。

 何よりも特筆すべきは、女体はヒトでもいいということ。生半可な山賊よりずっと恐ろしい末路が、こいつに捕まった女には待っているのだ。


 フレイスは後ろ足を掻き、今にも攻撃を仕掛けようとしていた。

 ロイは「右からいけ」とハンドサインで指示。元来プライドが高いブルーラバーンだが、主人の命令には絶対服従。フレイスは右回りに、ロイは左から回って攻撃を仕掛けた。

 ヴァルガオウガが低い声で唸り、鳴き交わした。ロイは迫る一体の爪を剣で弾き、素早く上段から振り下ろす。刃が肩口から進入し、毛皮を切り裂いて肉と骨を断つ。血飛沫が上がり、ロイは己の筋力と剣の重みでもってそのまま袈裟に切り抜いた。

 前のめりに昏倒したヴァルガオウガの心臓を背中越しに突き刺し、潰す。引き抜いた剣を肩に担ぐ構え――怒りの構えツォルンフートと呼ばれる状態に持っていく。


 フレイスが既に一体、思い切り蹴飛ばしていた。三〇〇キロの超重量から放たれる蹴りである。せいぜい四〇キロ程度のヴァルガオウガなど容易く蹴飛ばされ、大木に叩きつけられ絶命。二体目が鋭い爪で引っ掻くが、頑丈な鱗に阻まれてびくともしない。

 負けていられない。ロイは仲間の仇を打とうとするヴァルガオウガに向き直り、腰を跳ね上げて肩を上げ、剣を上に押し出すと素早く上段切りを見舞う。

 素早くヴァルガオウガは自身からして右にステップし、ロイの左側面に回る。剣を構え直しつつ蹴りを繰り出し、土手っ腹を蹴飛ばした。

 距離を空けつつ素早くイェルンヤクターを構え直し、横薙ぎに剣を振るった。

 脇腹から剣が捩じ込まれ、臓物を潰す確かな手応えとともに血飛沫をこぼさせ、ロイはそのまま左から右へ剣を薙ぎ払い切った。

 ゴパッ、とヴァルガオウガは喀血し、膝をつく。ロイは苦しみが長引かぬようにとすぐに剣を振り上げ、脳天にとどめの一撃を叩き込んだ。圧力で脳が眼窩と耳から溢れ、目玉が飛び出す。

 ロイは剣を引き抜き、血の糸を引くそれを持ち上げた。

 同時にフレイスが最後のヴァルガオウガを倒していた。その新鮮な肉を竜の顎で噛み砕き、捕食している。


「っぷう……」


 肺に溜め込んでいた澱んだ空気を吐き出し、ロイは剣にべっとりとついた血を布で拭う。帰ったら手入れしてやらないとと思いながら、背中の鞘に戻した。

 ところで背負っている剣は、腕との位置関係から左肩側からじゃないと抜けない。加えて鞘を起こして引き抜きつつではないと、必ずつかえる。演劇の剣はバネのようにグイングイン跳ね回るから多少無理な姿勢からでも抜けるが、現実の、「ヤクター」用の武器では無理がある話だった。

 ロイは腰から鉈を抜くと、たおしたヴァルガオウガの死体から毛皮を剥いだ。斃した幻獣は無駄にしない。狩人ヤクターの基本である。

 フレイスは二体のヴァルガオウガを貪り、満腹になったのか口の周りの血を赤い舌で舐め取り、ご機嫌そうに鼻を鳴らした。そばに寄ってきて、フンフンと鼻を鳴らしながら甘えてくる。主人にはとことんデレてしまうその性質から、ツンデレ幻獣の代表格を冠するブルーラバーンを愛好するヤクターは多かった。無論、デレさせるまでの道のりが長く苦難に満ちていることは言うまでもない。


「頼みは解決したな。証拠も剥いだし、行こうか。乗せてくれ」

「ガルググ……」


 ロイはフレイスの背中に取り付けた鞍に跨った。

 ひとまずしばらくの稼ぎは得たので、ロイは安心して家に帰れそうだなと思った。

 狩場から踵を返し帰り道を歩いている間、ロイは家で待つ師父のことを考えていた。

 自分を拾って育ててくれた恩人。剣術を教えてくれた師匠で、親友で、父親のような人。その肉体を蝕む肺病は日に日に悪化し、医者はもう手遅れだと言った。村の神官でも、それどころか街の指定教区にいるような司祭ですら治せないほどに悪化していると。

 ならばその苦痛が少しでも和らぐようにと、ロイは痛み止めの薬代を稼いでいた。そして、なるべく栄養のつくものを食べさせるために日々村人から仕事をもらっていた。


「フレイス、ゴルツは楽に逝けるだろうか」

「ガゥ……ググ、ッガル」


 ゴルツ――師父の名を口に出し、ロイは呟く。

 今し方鬼のように剣を振り回し幻獣を駆逐した少年とは思えない弱々しい声に、フレイスは若干、苛立っているようにも思えた。そんな弱気なんて見たくないと、幻滅されている気がした。けれどもフレイスとて主人に弱い部分があることを知っている。ならばこそのその振る舞いであり、鼓舞であった。

 ロイはその気持ちをありがたく思うと同時に、どこかで手厳しさを禁じ得なかった。もう少し優しくしてくれてもいいのにと思う。


 とはいえ当のゴルツだって同じ反応をしただろう。誰よりも死期を悟っているのはゴルツに他ならない。

 ロイはままならない現実に腹立たしげに乱暴な息を口から吐いて、帰路を急いだ。

 せせらぎの森を出て土を踏みしめただけのような街道を北上すると、村がある。川沿いの、リバーサイド村。ロイは門衛とは顔パスで通過し、フレイスから降りて村を歩いて進む。

 依頼人は、雑貨商の男だった。仕入れの邪魔をする幻獣が出たから駆除してくれという依頼を今回任されたのである。


「依頼通り、ヴァルガオウガ四体の討伐を行ったよ。証拠の皮だ」

「あいよ、確かに。じゃあこれ、約束の薬を二日分と、干し肉と、堅焼きパン、チーズだ」


 ロイは頭陀ずだ袋に収まったそれらを受け取って、雑貨商の男に礼を言った。

 今日の仕事は終わりだ。ひとまず薬が手に入ったので一安心である。

 他の村人たちと二、三会話をして、ロイは若干急足で家に帰る。村を出るなりすぐにフレイスに跨り、速歩で歩かせて家までの道を急ぐ。

 焦っているだけに過ぎないと頭では分かっていても、この瞬間にも師父がころりと逝くんじゃないかと気が気ではなかった。


 空はだんだん夕暮れ時になっていた。ここから家まで速歩(時速九キロ)で三十分ほど。大した距離ではない。

 ロイはフレイスの首の付け根を撫でつつ、「帰ったら美味い干し肉があるからな」と言った。彼女(フレイスはメスである)は嬉しそうに喉を鳴らす。食事自体はさっきのヴァルガオウガで済んでいるが、豚の干し肉は彼女にとってデザートのようなものだ。

 無論、家にそんな余裕はない。食料は貴重だ。だが、フレイスの労働力がなければ移動もままならないのが現状である。他者を思いやり労えないような、貧相な人間にはなるなとゴルツも常日頃言っていた。ロイもそう思っている。金銭が貧かろうと、心まで貧しくなることはない。


 世の中は己を満たす方法論で溢れかえっている。己が満ちていなければ他人を満たせないと。

 ロイもそう思う。だが、ロイのように小さな器の人間は少しの水で満ち足りる。足ることを知れば、あとは溢れる分を誰かに分け与えるだけだ。情けは人のためならず——いつか他者への施しが、自分に返ってくるかもという打算もあるにはある。だがそれ以上に、溢れかえるものなど抱えていたって仕方ないのだ。ならばいっそ、与えてしまえばいい。


 やがて半ば森に飲まれたような小屋が見えてきた。一階の平屋建てで、ロイは雨除けと藁草が敷いてあるボロい竜舎にフレイスをいれ、傍らの木箱を開けて干し肉を取り出すと、彼女に投げ渡す。

 空中で喰らい付いたフレイスは何度か強靭な顎で咀嚼したのち、ごくんと飲み込む。

 ロイは彼女の頭を撫でてやる。フレイスは鼻先をロイの頬に擦り付け、甘えたように鳴いた。くくりつけてある頭陀袋を担いで家に戻った。

 ドアを開け「ただいま」と言って、家の中に入る。

 魔力カンテラが青白く灯る中で、師父ゴルツは本を読んでいた。王国の歴史をまとめた分厚いハードカバーの歴史書だ。


 ゴルツはオーク族である。薄緑色の肌に、コブ状の円錐形の角が四つ、下顎の牙が少し突き出ていて少々恐ろしい。だが意外にも理知的で思慮深く、ロイに読み書き計算を教えたのも彼である。ロイが並以上に座学をこなせるのは、王国騎士だった師父のおかげである。

 オーク、そしてオーガは鬼人族と総称される人種だった。その魔族めいた外見と、実際かつては魔族とされていた歴史から先入観をもつものは多いが、実際親としてゴルツを知っているロイにしてみれば、ひどい思い込みだった。確かに乱暴なところはあるが、基本的におおらかで気のいい種族である。

 かつては王国騎士団で百人長までつとめた騎士であり、鉄腕のゴルツといえばその名を知らぬ者はいない拳闘師だったらしい。


「師匠、返事くらいしてくれよ」

「ん、おお……書に夢中で気づかんかった。大事はなさそうだな」

「まあな。俺とフレイスならヴァルガオウガくらい平気だぜ」

「頼もしい限りだ。だが世界は広いことを忘れてはならんぞ」


 ゴルツはそこまで言って、ロイが差し出した薬瓶を一目見て、複雑そうな顔をした。


「儂にはもう必要のないものだ」

「何言ってんだ。飲めよ。苦しいだろ」

「いや、痛みさえ感じん。痛覚まで死んだ」


 ロイは息を呑んだ。人は、そこまで弱ることができるのだろうかと。

 薬瓶を、彼は机の上に置いた。なんどか深呼吸をするが、非常に苦しそうである。

 ややあって口を開いた。


「シンカ村に行け。お前を拾った場所だ」

「シンカ……村?」

「ここから東に、フレイスに乗って二日ほどだ。街道が途中で途切れておるが、地図を渡しておこう」

「なんでそんな話を――」

「儂にはもう時間がない。お前の知りたがっていた出自を知るには、実際にお前自身がシンカ村に行くしかないのだ。案ずるな、諦めさえしなければ道は拓ける」


 ゴルツは立ち上がって、本棚から地図帳を取り出した。彼が放浪している間に書き留めた、このエルトゥーラ王国の地図である。

 地図は重要な軍事的資産であり、戦略物資だ。敵に知られればそれだけで攻め込みやすくなってしまうという代物であり、とどのつまりその土地の情報という立派な武器である。だから王国は大々的に製図された地図の販売を行っていないし、せいぜい地元民が口伝や書留で流通させている程度の地図くらいしか、市井には出回っていない。

 元騎士が記した地図ともなれば、その価値は計り知れない。敵国の将校なら千金を積んでも手に入れようとする軍事戦略物資である。


「明日にでも発て。荷造りは、儂が済ませた」

「……師匠、俺は」

「どんな人間にも、覚悟ができていようがいまいが、選び取るべき時が来る。お前はたまたま今日だったというだけだ。前に進むか、留まるか。お前はどうする?」


 そう問われ、ロイは冷静に考えた。胸に手を当て、呼吸を感じながら。

 ロイは出自を知らない廃村の遺児だ。

 己というルーツを持たないというのは、薄氷の上を常に歩いているような感覚を伴う。それを常に感じながら生きている。

 自分が何者で、何を成すために生まれてきたのか――それを、昔から知りたかった。他人に決められた生き方で生涯を棒に振るくらいなら、自分の選択で玉砕して死んだほうがマシだった。


「俺は……進むよ。前に進む」

「よろしい。……さあ食事をとって寝ろ。明日は、早いぞ」


 ロイは頷いて、ゴルツが作り置きしていた煮込みを食べ、その日はさっさと就寝するのだった。


 ゴルツが死んだのは、翌朝のことだった。

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空に唄えば竜は踊るか 夢咲蕾花 @ineine726454

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