空に唄えば竜は踊るか

夢咲蕾花

序章 黒竜王

プロローグ りゅうのうた

 いつかの時代の、とある場所。

 名もなき島の石窟。大勢から忘れ去られた土地の、洋上の、果ての島の終わりの一枚岩にくり抜かれた棲家。――吹き抜けの天井からは、美しい二色の月が覗いている。青く輝くまん丸の月と、常に欠けている、赤い三日月。二つの月は一頭の黒い竜を闇の中に照らし出し、その残酷で凄惨な有様を、克明にこの世に曝け出していた。

 混ざり合う赤と青の光は紫の月光となって、黒竜をぬらりと映し出す。

 黒い甲殻が熱で焼けて溶けて弾け飛び、ところどころ癒着して歪に繋がっており、鱗が白骨化して風化し、欠けて砕けている。傷んだ肉が再生能力を失い腐り果てて、蛆が湧いていた。

 竜の鼓動により生じる生命力が尽きた証。肉体の再生が終わり、朽ち果てていくその途上。

 竜の青い瞳には生気はわずかにしか感じられず、もう永くないことは明白だった。

 黒竜は浅い喘鳴を繰り返し、己の最期を悟って、寄り添う一人の赤い目の女を想って——それまで恨みこそすれ、慈悲も奇跡も起こすことなどなかった、一切の信仰など向けたことのない星の女神に、祈った。


 ――憎きステラミラ。俺のことはもういい。だからせめて、まっすぐで純粋なこの子だけはどうか、安らかな最期を迎えられるようにしてくれ。


 白い一張羅を着込んだ女は、黒竜のおとがいを撫でた。金色の髪、澄んだ真紅の目。白皙の美貌は一服の絵画のような美しさを感じさせる。今まで見てきた連中の中でも一等美しい女だと、黒竜はドラゴンながらに思った。

 過去に何があったのか、直接教えてもらったことはない。喋ることができないのだ、彼女は。だが、喋ることができないというその特性から、凄惨な目に遭ったのだろうということは容易に想像できた。

 彼女が聖女として祭り上げられていたことは知っている。ある聖騎士が、同じ聖騎士からなる討伐隊を率いて黒竜を襲い、返り討ちに合った。そのとき聖騎士たちから足を折られ殿にと、あるいは生贄にと放り出されたのが彼女だ。折れた足は、黒竜が血をわけ、治してやった。

 哀れだったからではない。


 あるいはあの時の感情は——。


 黒竜は鼻先を女にくっつけ、「安心しろ」とだけ言った。

 それから絞り出すような声で、「また、唄ってくれ」と懇願した。

 女は泣き笑いのような顔を浮かべ、胸の前で手を折り合わせて歌った。


 その歌には、歌詞がない。囀りのようなメロディを口ずさむだけのものだ。だが、なぜかひどく心地よかった。

 黒竜はそれを「りゅうのうた」と呼んで、毎晩のように歌ってもらっていた。

 これを聞いている時だけは、苦しみから逃れられる。


 全身が夜を塗り固めたように黒く染まった体を持つが故に、一族から放擲ほうてきされたことも。おぞましい力を持ったが故に疎んじられ追っ手を差し向けられ、毎日を戦いの渦中に放り込まれたことも。

 そして、その戦いの中で限界を迎えた肉体が終焉に向かって歩き出したことも。

 嫌なことは全部忘れられる。安らかな気分で、旅立てる。

 決して穏やかな竜生ではなかった。だが、こうして見送ってくれる者が一人でもいるのなら、悪くない一生のように思えた。

 ああ、俺は身勝手だ。残されるこの子の気持ちを考えちゃいない。

 いやだ。いやだ。離れたくない。もっとずっと。


 ちくしょう、もっと力があれば。もっともっと、他者を圧倒し、障害を破壊し尽くすだけの絶対的な力があれば——この世界を支配してもなお、お釣りが来るだけの力があれば、この子を守れたのに。

 身勝手な俺では、幸せ一つ得られない。


 ――すまない。俺は死ぬ。

 ――君を置いていってしまう。

 ――私がヒトだったなら、君と愛を交わしたかった。

 ——わがままですまない。贅沢ものですまない。それでも俺は、君ともっとずっと、一緒にいたかったよ。


 もたげていた首が、ついに頭の重さすら支えられなくなって地面に横たえられた。

 青い目が虚ろに宙を彷徨い、聴覚が働かなくなる。自分という存在が終わっていく感覚。自分という像がこの世界から綻んで水に溶けていく——カップに落とした、角砂糖のような。

 震える前足で、その年輪のような層が刻まれた鉤爪で女の腹を撫でた。


「すまない。いままで、ありがとう」


 最期に言えたのは、それだけだった。

 黒竜はその瞳から光を失わせ、全身から力を抜け落として沈黙した。


 りゅうのうたが不自然に途切れ、女は戸惑ったように黒竜に寄りかかった。

 だが、もう動くことも喋ることもない。徐々にその肉体は白骨化が進み、炭化していく。最愛のひとが、命ある肉体からただの物体になっていくのに耐えられず女は絹を裂くような悲鳴をあげた。


 ——これが建国の英雄王の時代、のちに黒竜王と呼ばれる女が生まれる誕生の物語。その、序幕であった。


 後の世に討伐され、英雄王降臨の英雄譚となる物語の、その定番の悪役は。

 他ならぬ人の悪意が生んだ、悲劇のヒロインであったのである——。

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