上
「ワープしてみたい?」
と三毛猫を撫でていた女の人が言った。
「ぼく……ですか?」
彼女は、ネコの顎をわっしゃわっしゃとしていたかと思えば、クスリと笑う。ゴロゴロと喉を鳴らす子猫に向けてなのか、それともぼくへ向けて?
「意味が分からないんですけど」
「いやね、キミが困っているみたいだったからさ」
確かにぼくは困っていた。でも同時に、優雅にネコと戯れているあの人だって、それは同じのはず。
ここは屋上。
目の前にドア。
足元には、無残にもげたドアノブ。
言っとくけど、ぼくが壊したわけじゃない。勝手に壊れたんだ、ホントに。握って回そうと思ったら、ぽきっと。ゴリラ並みに握力があるわけでもないよ。
それで途方に暮れてたら、女の人がいたってわけだ。
心細かったから安心したと同時に、驚きもした。屋上で洗濯物を干してるときにはいなかったはずなのに……。
「いいや、いたよ。あの貯水塔の上でね、日向ぼっこをしてたのさ」
彼女が指さした先には、黄色にペイントされたタンクが置かれている。梯子はあるけれども、あんなところに上るなんてどうかしてる。だって、屋上の外へと傾いてるんだ、いつ墜落したっておかしくないよ、あれ。
「倒れるまでは、倒れる可能性と倒れない可能性があるんだよ」
この人の言ってることがいまいちわからない。
そりゃ、倒れるか倒れないかは、その時にならなきゃはっきりしないけれども、だからって普通、危険なものに近づいたりするか?
「重ね合わせってやつだよ。キミはいくつだい?」
「15ですけど」
「そうか、高校一年生」
「……中卒かもしれませんよ」
「ないね」
「よく断言できますね」
「知ってるから」
なにを?
ぼくの問いかけに、彼女はクスクス笑っていた。
立ち上がり、真正面までやってきたその女の人は、ジーパンに白いTシャツ、それからスニーカーというラフなもの。
Tシャツには、食パンを背負ったネコちゃんが描かれていた。
「ネコ……お好きなんですか?」
「好きっていうか、かわいそうっていうか?」
「かわいそう?」
もしかして、この人は動物愛護団体の人だったりするんだろうか。
「違う違う。ネコって実験の被害者になっちゃうからさ、かわいそうだなって」
「実験」
「シュレディンガーのネコって知ってる?」
それくらいなら、科学に疎いぼくでも知ってる。ネコちゃんを箱の中に入れて、うんぬんかんぬんするやつだ。
「うんぬんかんぬんって?」
「…………」
「あ、知らないんだ。知ってるみたいな風だったのに」
ふふふと彼女が笑った。
もしかして、からかわれてる?
女の人はユルユル首を振った。
「シュレディンガーのネコは思考実験なんだよ」
「思考実験?」
「頭の中で考えた実験ってことね。それでは、ネコを箱の中へと入れます」
女の人は、ボロボロのスニーカーにまとわりついてきていた三毛猫を抱え、園芸道具が入ったビールケースに入れる。屋上では、管理人さんが園芸栽培をしてるんだ。トマトとかパセリとかをつくってて、ぼくも一ついただいたことがある。
「外からはネコが見えないようにします。見えないよね?」
「そこの箱のことならまあ……」
なにをしようとしてるんだろう。不思議に思ってるのは、ぼくだけではないらしい。箱の中からにゃあと鳴き声がした。
そんな不安そうな鳴き声を、彼女は気にせず、うんうんと頷く。
「よし、実験では箱の中に毒ガスを――」
「毒ガス!?」
「あ、違った。致死性の高い放射性物質だったかな?」
「どっちもいっしょじゃないですか!」
ネコが死ぬことには変わらない。毒ガスだろうが、ウランなんちゃらだろうが。
ぼくの反応がよほどおかしかったのだろうか、女の人がまた笑いだした。
「だから、思考実験だってば。実際に殺すわけじゃないよ」
「そ、そうですよね」
なんだか恥ずかしくなってきた。
くすくす笑いながら彼女は、ネコが入った箱へと近づいていく。箱ではネコちゃんが騒いでいるのだろうか、ガタガタ動いていた。
「例えば、この箱の中に、ネコちゃんはいると思う?」
「え、当たり前じゃないですか」
「だね。入れられるところを見たわけだし、それが普通だよ」
女性は1、2、3と口にする。まるで、ヒトを消し去ろうとするマジシャンみたいに。
スリーと言いおえると、彼女は箱を指し示して。
「開けてみてよ」
「はあ……」
ぼくは箱へと近づいていく。近づいて気がついたんだけど、あれだけニャゴニャゴ言っていた声が聞こえない。
まさかな。そう思いつつ、中をのぞき込めば、そこにはスコップやら軍手やらしかない。
三毛猫はいなかった。
「え」
「びっくりした?」
「ど、どこにやったんですか」
女の人がウィンクする。それがまた、様になっていてぼくは思わず見とれてしまった。でも、それどころじゃない。
ぶるんぶるんと首を振っていたら、彼女は貯水塔の上を指さした。
そこには、先ほどまでいなかった、三毛猫がいる。くしくしと足で顔をかいているその姿は、まさしくねこだ。
「いつの間に」
「これがワープです」
女の人が手を広げる。マジシャンみたいだった。
「ワープだなんてそんなまさか」
「まさかも何も現実に存在するのよ。すんごく小さい世界では日常的に行われていること」
「だからって、ぼくたちができるわけじゃないです」
「出来るんだってば。私たちもまた小さな物質が集まってできてるんだから」
「その理論で行けば、今すぐにでも屋上から脱出できますね」
「うん」
うんって言われてもなあ。
ぼくは女の人をまじまじと見つめてみる。
その人は、めちゃくちゃ美人だし、見るからにまともそうだ。頭のおかしそうなヒトには見えないし、未来から来た可能性だってあるかもだけど、服装が地味すぎる。もっとこうぴっちりとしたスーツを身にまとってるんじゃないか、未来人って。
「それは偏見だと思うけど」
「と、とにかく。じゃあ、今すぐここから出してください」
ぼくはもじもじしながら言った。別に、色気づいたってわけじゃない。下世話な話になっちゃうけど、もう漏れちゃいそうなんだ。
トイレいっときゃよかったなあ……なんて後悔したっていまさら遅い。
女性はぼくのことを見たかと思うと。
「秘密にしてくれると約束してくれるのであれば、いつでも」
ぼくは何度も頷いた。
彼女の手がぼくの頭へと伸びてきて、
パッと弾けた。
量子的な彼女 藤原くう @erevestakiba
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