量子的な彼女

藤原くう

 その時に起きたことを、ぼくは覚えていない。


 ただ、あの人の言葉を信じるのであれば、ぼくと彼女はワープしたことになる。


 でも、実感はなかった。


 ただ、頭を撫でられただけだと思う。女性は、ぼくのことをいつくしむように見つめており、ぼくは恥ずかしくて、目をぎゅって閉じた。


 気がついたら、アパートの一階だった。


「え――」


「どう? 信じる気になった?」


 声が間近でして、ぼくは思わず飛びあがる。

 

 女の人は、にこりと微笑みかけてくる。その距離は、目と鼻の先というものを超えている。少しでも動けば、顔と顔とがぶつかっちゃいそう。


 いい匂いまでしてきて、頭がくらくらしてくる。


「信じますから。離れてっ……!」


「うん、いいよ」


 するりと彼女は、ぼくから距離を取った。


 それでもぼくの心臓はどっくんどっくん高鳴っていた。鼻先には、彼女の残り香のようなものが漂っているのかビリビリジンジンしびれている……。


「ぼくちゃんには、ちょっと刺激が強すぎちゃったかな」


「い、今のは何だったんですか」


「ワープだけど」


「ホントに? ぼく、催眠術か何かされてるとかじゃなくて?」


「そんなことできないって。私にできるのはせいぜい、ワープくらいかなあ」


 それでもすごいことだと思うんだけど。


 なんて思ってたら、女性がぼくのことをじっと見つめてくる。


「な、なんですか。お金ならありませんよ」


「高校生にもなろうとしてる子からお金なんて取りません」


「大人からは取るの……」


「それは秘密。キミが大人になったときに教えてあげる」


「あなたは大人?」


「女性に年齢を聞くものじゃありません」


 もうっ、と困ったように腰に手を当てる彼女。


 怒ったように上がっていた眉が、への字にクニャンと曲がった。


「意外と冷静なんだね」


「いや、めちゃくちゃ驚いてます。バクバクです」


「それはどっちのことかな?」


「…………」


 もうどっちでビックリしてるんだか、自分でもわからない。


「大騒ぎして、誰かにチクるんじゃないかって思ってたんだけど」


「そんなことしませんよ」


「ホントかなあ……前の人は、私のことをFBIに売ったよ?」


 その表情は、世界最期の日の夕方みたいに暗い。


 っていうかFBIってアメリカの連邦捜査局のことで、Xファイル課があるところだっけ。


 ぼくが何も言わないでいたら、ごめん、と彼女は言った。


「キミには関係ないことだったね」


 ぽつりと彼女が呟いて、また、沈黙が訪れた。


 頭の中では言いたいことがとめどなく渦巻いていた。さっきのはいったい何だったのかっていうのは聞きたいし、何をしていてどんな人かっていうのも聞きたかった。


 でも、結局口にはしなかった。


「あの」


 ぼくは思い切って口を開いた。胃がチクチクして、今にもなにか吐き出してしまいそうだったけれど、なんとか言葉をつむぐ。


「さっきは助けてくれてありがとうございます」


 ぼくは頭を下げて、その場から立ち去ろうとした。


 でも、できなかった。


 くるりと180度方向転換して走り去ろうとしたその時、手をつかまれたんだ。


 誰にって言うまでもないだろう。


「こっちこそありがとね」


 スッと、ぼくの手にちからが込められて、体が女の人へと引き寄せられる。


 ふわりといい匂いがしたと思ったら、頬にやわらかいものがぶつかった。


 でも、それは、ぼくの妄想だったのかも。


 次の瞬間には、包み込むような匂いは霧散して。


「今度また、ワープさせてあげる」


 女の人が走り去っていく。


 ぼくよりもその大人びた背中を、ぼくは見送った。


 沈みゆく太陽よりも熱を帯びた、頬を押さえながら。

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