第30話 陽一郎の記憶



 陽一が、うぐいす姫の元へ自ら来たのは想定外のことで動揺してしまった。

 しかし、すぐに行動を起こさねば、何のために陽一をここへ連れてきたのか分からなくなってしまう。


 うぐいす姫は立ち上がると、赤猪子と陽一の元へ急いだ。赤猪子は結界ギリギリの場所で外側を睨みつけていた。陽一の姿は見えない。


「おばば、陽一郎をどこへやったのだ」

「姫……」


 赤猪子は振り向いた時、うぐいす姫の顔を見てハッとした。そして、しわくちゃの顔を引き締めた。


「陽一郎殿は神殿に寝かせておる。言われた通り術をかけて眠らせた。しかし、時間はあまりないようだ。慶之介殿と月の騎士が姫を探しておる。そして、ハンターはもう間もなくここへ集結する」


 うぐいす姫はこくりと頷いた。


「兄上たちはこの場所を知らぬのであろう?」

「慶之介殿は、わしがここにおることも知らぬゆえ、見つけるのは容易ではないはず」

「陽一郎の里には手を打ったであろうな?」

「無論、わしがこさえた人型を仕込んでおいた。今頃は夕餉の時間でしょう。問題ない」

「それを聞いて安心した。我はこれから、陽一郎の記憶を呼び覚ます」

「承知いたした。陽一郎殿はよほどのことがない限り目を覚ますことはない。彼の周りにかけた結界も容易には解けぬようにしました」

「恩に着る」


 身を翻し、うぐいす姫が陽一の元へ行こうとすると、赤猪子が呼び止めた。


「姫」

「うむ?」

「わしに頼むことはもうないか?」

「ない。おばばは何もしなくてよい」

「……御意に」


 うぐいす姫は社の奥にある部屋へ急いだ。一歩足を踏み込むたびに、心臓が早鐘を打ち、立ち止りそうになる。しかし、もう後戻りはできない。

 陽一は薄い布団で眠っていた。寝顔はあどけない少年だ。


 昔の記憶はおぼろになってきてはいたが、目の前にするとまざまざと過去が思い浮かんでくるようだった。

 うぐいす姫は目を閉じて深呼吸をすると手を伸ばし、眠る陽一の額に指を当てた。


「陽一郎、もう幾年が過ぎたか。今まで目を背けていたが、お主にようやく会える」


 一瞬、うぐいす姫の姿が元の彼女に戻ったように見えた。しかし、それは幻だったかの早さで鬼に戻っていた。


「我が命ずる。陽一の魂に眠る陽一郎の記憶よ、我と話をしよう」


 うぐいす姫の呼びかけに、陽一の目が開いた。焦点の合わない瞳がぼんやりと自分を見つめていたが、やがて、大きく見開かれた。


「姫……」


 見開いた瞳の表情は、あの最期の日の陽一郎だった。

 うぐいす姫はとっさに声が出なかった。声を出せ、と己に言う。


「……久しぶりだの。陽一郎」

「うぐいす姫?」


 懐かしい陽一郎の声だった。




◇◇◇




 陽一郎は混乱していた。

 険しい顔で警戒するように辺りを見た。


「村人は? 俺は確か……」


 陽一郎はうぐいす姫の姿を見て驚いた。


「一体何が……。ここはどこです? ご無事だったのですか?」

「お主とゆっくり話がしたくてな。ここは安全じゃ、村人もおらぬ」

「俺には何が何だか……」


 陽一郎は困った顔をしていたが、うぐいす姫の顔を見て少し落ち着いたようだった。うぐいす姫は心臓が高鳴るのを感じた。涙が溢れそうになるのをこらえる。


「陽一郎、時間がない。詳しい説明をしている暇もないのじゃ。我はお主に謝らねばならぬ」

「うぐいす姫……」


 陽一郎はびっくりした顔で大きく首を振り、動かない右手を庇いながらすり寄ると、左手でうぐいす姫の手を取った。うぐいす姫はハッと顔を上げた。


「あなたは何も悪くはありません」


 陽一郎の手から温もりを感じて、うぐいす姫はこらえきれず、涙をあふれさせた。


「すまぬ……。我のために、お主の一生を奪ってしまった。我は後悔しておる。だが、これで最後じゃ、もう、我らは二度と会わなくてすむ」

「俺は望んでいません」

「お主は望まなくても、我はもう疲れた。終わりにしたい」


 陽一郎が顔を近づける。

 うぐいす姫は醜い自分を隠そうと手を離そうとしたが、陽一郎が許さなかった。


「やめてくれ。もう、たくさんじゃ」

「俺は、あなたのものです」

「ならぬ」


 きっぱりと答え、その手を突き放した。


「お主が我が元へ来た時、突き放すべきだった。この縁、ここで断ち切る」

「なぜですか。鬼になる以前からあなたが好きだった。あなたに会いたくて俺は山へ入った。村人を食べないで欲しいと願ったのは、あなたのそばに居たいがための言いわけです」

「それは思い違いだ。お主は兄を殺されて、復讐するのではなかったのか?」


 ――兄。

 陽一郎が思い出したように呟いた。そして、左手を強く握りしめた。


「兄。そうです。あなたには言えなかったが、本当に卑劣な男でした。罪もない村の女たちに手を出し、あなたに仕える巫女にまで手を出そうとした。あなたは兄を止めるため村へ降りて来た。それが真実です」


 陽一郎の兄は見目の麗しい男だった。彼は自分の容貌におごり、手あたりしだいに女を襲った。兄には親の決めた嫁がいたが、彼女は兄の虜となり、嫁もまた周りが見えなくなっていた。


「謝らなくてはならないのは俺たちです」

「鬼に心を奪われたのは我じゃ。もう、人には戻れぬ」

「うぐいす姫」


 陽一郎はいつものように右手を差し出した。


「この手を切り取ってください」

「え?」


 うぐいす姫はぎくりとして、陽一郎を見た。恐怖で体が震える。鬼が体の中で暴れている。


「よせ……」

「あなたは俺のものです。誰にも渡したくない」

「陽一郎、もう、我らは長い時を過ごした。我は、お主が他の女子おなごを嫁にもらい、子を育てるまでずっと見つめてきた。お主が笑い、幸せに過ごすのを見て、我も幸せであった」

「俺はあなたと共に生きたいのです。俺の願いは聞き入れてくれないのですか?」

「我は地球では五十年しか生きられぬ。どうやら、五十年ほどで力尽きるようじゃ。我の願いはお主が静かに一生を終えてもらいたいこと。我はもう、お主が……他の女子おなご夫婦めおとになるのを見るのは辛い。これでしまいにしたい」

「うぐいす姫っ」


 陽一郎が強く手を握ってくる。うぐいす姫は顔を上げなかった。


「お主を前にすると、我の中の鬼を抑えることができぬ。お主を求めているのは我だけではない。我の鬼がお主を喰いたいと願っている」

「俺を喰ってください。俺は、あなたに喰われて幸せなんだ」

「もう、やめてくれっ」


 うぐいす姫は耳を押さえた。


「我はもう人を食べたいとは思わぬ。我は――」


 二人の会話を遮るように、かつん、と石が転がる音がした。


「来た……」


 うぐいす姫がさっと外を見た。暗闇で見えないが、結界の外側でざわざわと気配を感じる。陽一郎に向き直る。


「陽一郎、我の願いは叶った。お主の記憶を呼び起こした事により、お主とはこれっきりじゃ」


 陽一郎の顔が気色ばんだ。


「どういうことです?」

「許せ、陽一郎。我はお前を傷つけた」

「愛していました」


 陽一郎が顔を近づけて言う。お互いの顔が触れ合うほどに近寄ると、強く訴えた。


「あなたに毎日、喰われるたびにあなたが愛しかった。これきりだと、本気で言っているのですか?」

「お主のおかげで幸せな日々と過ごすことができた」

「うぐいす姫っ」

「かたじけない」


 陽一郎は目を見開き、噛みつくようにうぐいす姫に口づけた。うぐいす姫は強く目を閉じて、陽一郎の意識を奪った。陽一郎はがっくりと頭を垂れると、床に倒れた。

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