第31話 静かな月
「陽一郎……」
うぐいす姫は、彼のそばにしゃがみ込んだ。涙が頬を伝っていくのを止められなかった。
「姫……」
暗闇から赤猪子が現れた。うぐいす姫は涙を拭いて顔を上げた。
「陽一郎殿と話をされたのですね」
「ああ……」
「それで、これからどうなさるおつもりで……?」
「言ったはずじゃ、これで終結すると」
「お一人で戦うのか?」
「今さら何を言いだす」
うぐいす姫も負けじと赤猪子に向き直った。赤猪子は、うぐいす姫を見つめて話し出した。
「かつてわしは、村人に受け入れられず、孤独に追いやられていた。しかし、姫だけがわしを必要と言ってくれた。あの時から姫は命の恩人。何があろうとお助けすると心に決めていた。そのわしが姫を見殺しにできるとお思いか?」
赤猪子のしわくちゃの顔から涙がこぼれ、きらりと光ったかと思うと、彼女は持っている力を解放した。とたん、年若い少女に変わった。
腰まで伸びた長い黒髪が揺れて、張りのある白い肌は上気している。
「おばば、何をするつもりじゃ」
うぐいす姫が問うと、赤猪子の手に大きな薙刀が現れた。
「共に闘う」
「よせ。お主は父上が唯一愛した女性。我にとって家族も同然じゃ」
しかし、赤猪子は言うことを聞かず、社の入り口にある鳥居の方へ顔を向けた。
「陽一殿に結界を張ってくれ。その間、わしが外を守っておる」
「赤猪子っ」
呼び止めたが、赤猪子は見向きもせず行ってしまった。
頑固で高潔な志を持つ赤猪子には何を言っても聞かない。
うぐいす姫は、陽一を宙へ浮かせると社の一番奥の部屋へと移動した。奥の部屋は険しい山がそびえたつ場所にある。ハンターが陽一を見つけようとしても、少しは時間が稼げるはずだ。
――おばば、陽一を寝かせたらすぐに行く。
◇◇◇
その頃、義兄と流稚杏たちは、俊介の必死な呟き声など聞きもせず、瞬間移動をした先は、なんと月だった。
二人は唖然として辺りを見渡す。美しい庭園に小さな橋があり、手入れが行き届いた見覚えのある庭園。
地上とは違い、月は静かで時の流れが違う。しん、とした池も穏やかな時間が流れていた。
三人は小さな社の前に立っており、陽一は月へ飛ばされたのに、きょとんとしていた。
「殿……」
さすがの流稚杏も茫然としている。
「どういうことだ? なぜ、こやつは月への道を知っている」
「わらわにも分かりませぬ」
陽一は辺りを窺ってからハッとすると、あたふたと手を振り上げた。
「わあっ、な、何だここっ」
どてんと尻餅をついて空を見上げた。雲ひとつなく地球よりは白い空が広がっている。その時、流稚杏がハッとした。何やら屋敷の方が騒がしい。
「殿、何かあったようじゃ」
「うむ」
慶之介が、陽一を引き連れて屋敷へ向かうと、部下たちがあたふたと走りまわっていた。
「何を騒いでいるっ」
慶之介が叱ると、部下の一人が血相を変えて走って来た。慶之介の側近の者で、ひざまずくと震える声を張り上げた。
「も、申し上げます。
「何?」
大太刀が盗まれるはずはない。慶之介はすぐには声が出なかった。
「そんなはずはない。あれは俺が命じなければ動くはずがない」
「いいえ……。一人だけ動かすことができますぞ」
「まさか……」
「ええ、姫が命じたのです」
二人は陽一を見た。
「え?」
陽一が目をぱちぱちさせた。
「これは三輪守のしわざじゃな」
流稚杏が鋭い目で陽一を睨んだ。陽一はぞっとしたように体をすくめた。
「な、何ですか流稚杏さん、怖い声を出したりして」
流稚杏はずかずかと陽一に近寄り彼の手首をつかんだ。
「や、やめてくださいっ」
陽一が悲鳴を上げる。流稚杏は、陽一を逃がさぬよう強く手首を握ったまま目を閉じて集中する。
陽一の首の裏に文字が見える。背後にまわり、首まわりのシャツをはぐと淡麗な文字があった。指先でそれを消すと、陽一は、一瞬で
ひらひら舞い落ちる紙は瞬時に燃えて消えた。
「本物の陽一はどこに……?」
慶之介が呟く。
「三輪守を探さねば……」
流稚杏の声もか弱かった。
◇◇◇
陽一と出会った時から、うぐいす姫は決めていた。
これで終わりにする。ハンターとの諍いも陽一郎との関係も。
そして、自分は――。
どこへ行くのだろう。
うぐいす姫は、一瞬だが遠い目をした。
これから我はどこへ行くのか。魂は永遠を
うぐいす姫は
「おばば」
赤猪子は結界の向こうを見据えたままだ。破られてはいないが、こちらからはハンターたちの姿がはっきりと見えた。
暗闇に潜む男と女たちは皆、真っ黒のサングラスをしている。なぜか、あのサングラスは暗闇の中でもはっきりと見えているらしい。
ハンターからすると、うぐいす姫は月のように明るく見えているようなのだ。ハンターはいつでも襲いかかれるように腰を低くして睨んでいる。
「これほどまでに奴らが集結しているのは初めて見る」
うぐいす姫が小さく吐息をつくと、赤猪子がにやりと笑った。
「腕が鳴りますわ」
「おばば、我はハンターを一人も殺すつもりはない。奴らの穢れを吸うつもりじゃ」
「そうおっしゃると思っていました」
「手助けしてくれるのであろう」
「そのお体、鬼に譲るおつもりで?」
赤猪子が尋ねたが、うぐいす姫は答えなかった。
「わしを呼んだ理由はよく分かっております。ですが、わしにも意思はありますぞ。姫を消すような真似は絶対にさせませぬ」
うぐいす姫は、赤猪子のそばに寄ると、そっと彼女の肩に手を乗せた。
「姫?」
赤猪子が振り向いて目を見開く。
「我が命じる。
赤猪子の体が大太刀へと変化する。がたん、と音を立てて床へと落ちた。うぐいす姫は大太刀を宙に浮かせ、陽一の眠る奥の部屋へと見送った。
大太刀の姿がなくなると、結界の方へ顔を向けた。手を上げて振り下ろし、結界を解く。遮る壁が消えて、信じられないという顔のハンターたちが後ずさりした。
しかし、一人だけ前へ出てくる男がいた。
「鬼め、容赦せんぞ」
暗闇に浮かぶ白い肌、黒いサングラスをして、鼻筋の通った端正な顔の男。
薄情そうな唇の端を上げてにやりと笑い、うぐいす姫に近づく。
声に聞き覚えがあった。
陽一郎の兄の意識を植え付けられた男、
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