第45話 月にて





「晶さま、何かお困りになりましたら、いつでもおそばにおりますので、この和記わきにお尋ねくださいませ」


 晶は月へ還ってから、慶之介の暮らす屋敷で暮らし始めたが、幾日が過ぎたかもう分からない。

 温室でのんびりとお茶を楽しんでいた晶だったが、和記の言葉は耳にタコができるくらい聞いていた。


 和記は、晶より少しだけ年上だが、晶を守ってくれようとしているのが痛いほど分かった。

 少し上がり気味の一重の目と薄い唇でクールな印象を与えるが、根はとても優しく、ほぼ毎日のように晶の元へ通って来ていた。


 舞は休養を取るという名目で晶から引き離され、流稚杏るちあは神職に戻り、赤猪子がたまに晶の元へ訪れた。

 その赤猪子も近頃は姿が見えない。


 月の住人は寿命というものがなく、自らが生きると望めば幾年いくとせも生き続ける。そのため、願ったことはその通りとなり、各々が自由に生きている。

 役割も自らが望んだもので、晶は月の者たちの中では位の高い帝の娘であった。ゆえに地球から還って来た晶から話を聞きたいという者たちで、連日誰かしらが訪ねてくる。


 今、月では地球から還ってきた晶に対する話でもちきりだった。

 というのは、月は多夫多妻制というか、恋愛も当然自由で、さきの帝の娘である晶を男たちが興味を抱かないはずがなく、連日、文と花その他が送られてきた。

 晶はその求愛をことごとく断り、それにいたく感銘を受けた女たちが多数いて、その行く末を小説にまで書く者たちさえいた。

 当然、晶はこのことを知らない。


「晶さま、お飲み物が減っていますわ。おかわりされますか?」


 そう言ったのはあおいで和記の付き人だ。年は晶と同じ年頃の少女である。

 葵はまだ少々幼い顔立ちをしていて、葵を見ると陽一を思い出した。地球でいうところの高校一年生くらいに見える。


「葵どの、ありがとう。もう、かまわぬ」


 晶は、イスに座ってテーブルに置かれている花を眺めながらため息をついた。

 金の椿の横には、薄桃の短冊があった。どこぞの男が晶のためにと送って来た椿で、文も添えてある。


――姫さまのお姿を拝殿で一度お目にしてから夜もねむれません、と書かれてある。


 しつこい、と晶は思った。


「すまぬが、この椿を赤猪子どのが参られたら、神殿に飾っておくれと伝えてくだされ」


 晶が頼むと、和記が手に取ってほほ笑んだ。


「美しい椿ですね」

「ならば、主の屋敷で飾るとよい。ほれ、貸しなされ」


 晶が言って椿を受け取る。椿に手をかざすと、花びらに力が宿った。女たちから小さい吐息が漏れる。


「これで数日は元気に咲くであろう。我は、椿が嫌いなわけではない」

「晶さま」


 和記が頬を赤く染めた。


「ん? どうした?」

「わたくし、晶さまのおそばにいられて幸せでございまする」


 目を潤ませ今にも泣きそうな様子に、晶は困ったように笑うしかなかった。


「晶さま、慶之介様のお帰りでございます」


 侍女の声に、その場にいた女たちは挨拶をすると、静かに温室を出て行った。

 人がいなくなって晶はふうっと息をついた。顔を上げると、いつの間にか、義兄の慶之介がいた。


 慶之介は、晶が月へ還ってすぐに帝に即位した。慶之介は空いた椅子に腰かけて一息ついた。


「月での生活は慣れたか?」

「はい」


 言いたい事がたくさんあったが、ぐっと我慢して兄を見上げた。慶之介は晶と目が合うと、苦笑した。


「そう、睨むな」

「我が睨んでいるように見えるのですか?」

「そなたが戻って来て皆、大変喜んでおる。このままずっと暮らして欲しい」

「……兄上。我はもう無茶なわがままは言いませぬ。しかし、今一度、陽一と話がしたい」

「まあ、そうくこともあるまい」


 兄は目を細めると、話題を変えた。


「男たちからよく文が届いておると聞いたが」

「見ておりませぬ」

「それはいかんな。薄情な者と取られると、この先、住みにくくなるぞ」

「兄上」


 晶はもう一度、義兄を見た。慶之介は小さく首を振ると、さっと立ち上がった。


「そなたの顔を見て安堵いたした。たまには、俺と散歩でもしよう」


 それだけ言って慶之介は去って行った。晶は唇を噛みしめた。

 一秒でもいいから陽一の顔を見たいのに月には写真も何もなく、陽一との思い出だけで過ごすしかない。その気持ちをどうして理解してくれないのだろう。


 晶は肩を落とした。

 頼みの綱は赤猪子である。晶は、地上との繋がりを赤猪子に託していた。陽一についての報告を待っているのだが、赤猪子はなかなか現れなかった。




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