第40話 俺のうぐいす姫




「僕がいない間に何があったの」


 夜久弥は、陽一に駆け寄ると膝を突いて怪我の具合を確かめた。


「大丈夫。体はすぐに戻るよ」


 晶に安心させるように言うと、鬼がしゅんと萎れた。


「ごめんなさい。あたしが引きちぎった。だって、お兄ちゃんひどいことを言うんだもん」

「ひどいこと?」

「お兄ちゃんの心はあたしのものにならないって、でも、腕ならあげてもいいって」


 夜久弥がため息をついた。


「陽一くんにとって体の一部分は命と同じくらい大切なんだよ。彼の体は愛情だったんだ。晶もそうだ。過去の陽一郎だって、お前たちを想って自分を差し出したんだ」」

「陽一郎を食べてもお腹は減るばかりだった。あたしは陽一郎が好きだった。もっと話をして理解できる関係になりたかったのに……。差し出された右手は何も語ってくれない。どうしていいか分からなかった」

「君はもう一人じゃない。僕と一緒に生きていくんだ」

「ずっと? 離れない?」

「僕は君を大事にするよ」


 夜久弥が言うと、鬼がはにかんで少しうつむいた。


「ありがとう……。夜久弥」


 陽一の体は夜久弥の力によって腕は完全に再生され、顔に生気が戻った。晶は、膝の上で目を閉じている陽一の額をそっと撫でた。


「陽一、我は逃げてばかりで、お主を苦しめ傷つけてしまった。本当に申し訳ない」

「晶……」


 陽一が目を開けて右手を上げた。晶がその手を握りしめると、陽一がほっとした顔で笑った。


「晶が無事でよかった。死ぬなんて許さない。俺たちはまだ何も始めていない」

「……これで終わりなのじゃ。陽一」

「終わりじゃない」

「三輪守の大太刀でお主とのえんは切れた。もう、我らは会うことはない」

「何言ってんだよ。俺は、もっと晶のことを知りたい」

「陽一、聞き入れてくれ。我らはもう会えぬ」

「え……? 待って、どういうこと?」


 陽一が困惑した顔で夜久弥を見た。夜久弥が肩をすくめる。


「君は地球へ還り、晶は月へ還る。もう、会えないんだ」


 晶が月へ還る?


 そんなの嫌だ、陽一は言いそうになった。

 晶と会えないなんて絶対に嫌だった。

 今までだったらすぐに嫌だって言えた。けれど、晶のつらそうな顔を見ていると、もしかしたら、自分の言葉はわがままなのかもしれないと思った。


 陽一は体を起こすと、晶の顔を正面から見た。あの勝気な少女がしおらしく悲しげな顔でこちらを見ていた。

 陽一は、嫌だ、という言葉を呑み込んだ。


「そうか……」


 息が止まりそうなほど辛かったが、何とか声を出した。


「じゃあ、もう会えないんだな」


 晶がびくっと体を震わせた。


「だったら、忘れようか?」

「え?」

「夜久弥さんに、俺と晶の記憶を消してもらう? そうしたら、二人とも傷つかずにすむよな。夜久弥さんならできるんだろ?」

「陽一くん、本気で言っているの? 僕は本当に消せるよ」

「晶がそれでいいなら。俺、晶の泣き顔を見るのは嫌なんだ」

「晶はいいの? 今は辛くても時が立てばいい思い出になる。記憶まで消す必要はないんだよ」

「いいんです」


 陽一が遮って晶の答えを聞かずに決めた。


「どうせ会えないなら、記憶を消せるなら、消してください」


 夜久弥は呆れたように二人を見てから大きくため息をついた。


「……分かった。じゃあ、先に陽一くんの記憶を消すよ。晶、安心して、僕が責任を持って陽一くんをおうちへ還すから」


 夜久弥が淡々と言う。

 陽一は口を噛みしめてうつむいた。もう晶の顔を見ることができなかった。見たら、何を言うか分からなかった。こぶしを握る手がずっと震えていた。


「記憶を消したら、まあ、絶対にありえないんだけど、万が一、君たちがすれ違ってもお互いのことは覚えていないから」

「はい」


 陽一は頷いた。最後くらい笑顔でいたかったが、うまく笑えているのか分からなかった。


「晶、いいんだね?」


 夜久弥が言うと、晶は唇を震わせてうつむいた。


「我からも頼む。叔父上……記憶を消してくれ……」


 声がかすれている。


「晶はなぜ泣いているの? 気持ちを押し殺してしまうと、心が壊れるかも知れないよ」


 晶は泣いていた。最後くらい笑顔が見たかった。


「我の気持ちは今言うた通りじゃ。鬼の心も分かった。もう、心残りはない」

「晶の気持ちを聞いていない」

「叔父上っ」


 晶が悲鳴のような声を出して顔を上げた。


「晶の気持ちを聞いていないよ。どうせ、消すのだから全部吐くんだ。陽一くんに伝えなきゃ、心残りになるよ」


 夜久弥が言って後ろに下がる。

 晶は、陽一を見た。しかし、気丈に顔を上げると短く答えた。


「叔父上。我はこれ以上、何も言うことはありませぬ」


 硬い顔付きの晶を見て、夜久弥がため息をついた。


「それじゃあ、これで終わらせよう」


 突然、陽一の体に負荷がかかった。動けなくて息もしにくい。陽一は、さよならを言っていないことを思い出した。


「晶っ」


 陽一は声を張り上げた。

 夜久弥が手を振ると、闇夜に包まれる。


 晶っ。晶と陽一は何度も名前を呼んだ。

 俺は忘れたくないっ。


 陽一が叫んだ時、晶の声がした。


「叔父上、やめてくだされっ」


 気がつくと、晶を胸に抱き締めていた。晶の顔は涙で濡れていた。陽一はいっそう強く抱きしめると、晶はずるずるとしゃがんで頭を垂れた。

 手をついて地面に頭をこすりつけた。


「叔父上……我は、陽一を忘れたくはありませぬ。一緒にいたい。最後のわがままでございまする。せめて記憶だけは残してくだされ」

「晶……」

「陽一、我はお主が好きじゃ。これまでの陽一郎の誰よりも一番好きじゃ。お主を好きになって幸せじゃった。会えなくても月からずっと見ているから」

「俺も月へ行きたい。ダメか?」

「我はこれまでわがままを通して生きてきた。我にはどうしていいか分からぬ」

「婀姫羅」


 不意に男の声がして二人はハッと顔を上げた。見ると、慶之介がそばに立っていた。


「兄上……」


 晶がおびえたように、陽一にすがりついた。


「迎えに来たよ」


 慶之介が言った。晶は首を振った。


「兄上、今までの身勝手な振る舞いお許しくださいませ。我は陽一と離れたくありませぬ」


 慶之介が困った顔で夜久弥を見た。


「慶之介、二人を離せば、晶はきっと涙にくれる毎日を過ごすだろうね」

「叔父上……」


 慶之介が呆れたように言って、晶を見た。


「婀姫羅、俺がそなたを苦しめると思うか?」

「え?」


 慶之介は静かに近寄り、晶を起こした。陽一も一緒に立ち上がる。


「陽一、お主は一旦地球へ還るのだ」

「い、いやだっ」

「話は最後まで聞け」


 慶之介に睨まれて、陽一は首をすくめた。


「婀姫羅には一度、月へ還ってもらわねばならぬ。しかし、お主が婀姫羅を覚えておるのであれば、地球へ行くことを許そう」

「え?」


 陽一が目を丸くして口を開けた。


「それってどういうこと? いつ? 明日? それとも明後日?」

「近日ではないのは確かじゃ。お主が大人になった頃か」

「じゃあ、俺はもう晶のことを忘れないでいいのか?」


 晶が目を見開いて、義兄あにを見た。慶之介は大きく息を吐いた。


「お主らのえにしはどうにもならないが、二人の記憶はそのままにしておこう」

「兄上……」


 晶が目を潤ませて慶之介に抱きついた。


「感謝いたす」


 晶がくるりとこちらを向いて、心配そうな顔で陽一を見た。


「陽一、我を待っていてくれるか?」

「当たり前だっ」


 陽一は、両手で晶の手を握りしめた。


「俺は晶を忘れない。絶対、何があっても何年でも探し続けるよ。だって、俺のうぐいす姫はお前しかいねえもん」

「陽一……」


 晶が涙ぐんだ。


「笑ってくれよ。な、晶」

「分かった」


 晶がにこりと笑う。陽一はその笑顔を脳裏に焼き付けた。


「待っているから。俺、生きている限り、お前のことずっと忘れないから」


 二人はお互いを見つめると、ほほ笑みあった。


「これで終わりじゃないよ、晶」

「陽一、我は必ず会いに行く。だから、待っていてくれるか?」


 晶が言って体をそっと寄せた。

 陽一は震える手で晶の細い背中を抱きしめた。


 晶はいい匂いがした。柔らかくて温かい。ずっと、抱きしめていたかった。


「さあ、婀姫羅、皆、お前の還りを待っている」


 慶之介が晶の肩に手を乗せて、自分の方へ引き寄せた。


「陽一」


 晶が見つめている。

 陽一が手を振ると、晶が手を振り返した。それから、晶は消えた。


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