第38話 名前のない鬼
鬼は、夜久弥を不思議そうに見上げている。
夜久弥は鬼に笑いかけると、陽一の方を向いて話し始めた。
「僕について何も伝えてなかったね。僕はこの黄泉の国を統治している。理由は面白そうだから。ここはね、亡くなって迷子になった者たちがさまよう場所なんだ。僕はさまよう魂を本来の場所へ導くためにいる。でも、気づいたら独りぼっちでね。静かでいいんだけど、ちょっと寂しくてさ。姉上に相談したら、晶の中に鬼がいるから、その子ならやってもいいって言われたんだ。ところが鬼はなかなか晶から離れない。晶も鬼を解放しようとしないからね。だから僕はずっと、鬼と晶が別々になるのを待っていたんだよ」
「ま、待ってよ。晶の母ちゃんは言ったんだ。俺に晶を連れて帰ってくれって」
「姉上に会ったの。ふうん……」
夜久弥が意味深に笑った。
「だったら、可能性があるのかもね。僕が欲しいのは鬼だけなんだ。晶だけなら連れて帰ってもいいよ」
「俺は晶を探しに来たんだ。だから、返してもらう」
「いいよ。けれど、僕も知らないんだ。晶がどこにいるのか」
陽一は戸惑いながら、鬼の方を見た。
「そこにいるのは晶じゃないの?」
「これは鬼だって言ったよね」
「そんな……。晶はどこに行ったんだよ」
「あたし、知ってるよ」
ふいに鬼が口を開いて、二人はぎょっとした。
「あれ? 君、話せるんだね」
鬼は頷いて立ち上がった。体は小さくて、人間で言うと五、六歳くらいに見える。
「連れてってあげるよ」
鬼がにたりと笑った。鬼の様子を見ていた夜久弥が尋ねた。
「鬼では呼びにくい。君、名前はなんて言うの?」
「名前? あたしに名前なんてないよ」
「……名前は後で決めよう。晶を探す方が先だね。いいよ、君たち二人で探しておいで。もし、見つけたら僕を呼んで。そうしたら、すぐに君と晶を還してあげる」
夜久弥の言葉に陽一は目を潤ませた。
「ありがとう。夜久弥さん」
「陽一くん……。君ねえ、すぐに人を信用しちゃいけないよ」
「え? じゃあ、今のは嘘なんですか?」
「さあね。まあ、まずは探しに行っておいで」
それには答えず、夜久弥の姿が消えた。
再び、辺りは真っ暗になった。その時、ひんやりとした小さい手が陽一の手をつかんだ。
「お兄ちゃん、行こう」
鬼が引っ張って歩きはじめる。陽一は、鬼の隣をゆっくりと歩いた。
「晶はどこにいるんだ?」
「まだ歩き始めたばかりじゃないか」
「こんなに暗いのに見えるのか?」
「見えるよ。あたしの目は何でも見えるんだ」
陽一は手のひらに食い込む爪に顔をしかめた。
「ねえ、手の爪が痛いんだけど」
「ごめんね」
鬼が言ったが、緩めてはくれなかった。
鬼と陽一は、その後、何も言わずに歩き続けた。陽一は、だいぶ足が疲れていた。しかし、小さい鬼は裸足で歩いているのに、何ひとつ文句を言わない。時間がどれくらい過ぎたのか分からないが、ふいに鬼が立ち止った。
「お腹空いた」
「えっ?」
陽一はぎょっとする。お腹が空いたと言われても何もない。
「弱ったな、俺、喰いもんなんか何もないよ」
「お兄ちゃんの指を喰ってもいいか?」
「は? 今、何て言った?」
「お兄ちゃんの指を食べてもいいか、と聞いたんだよ」
「い、いいわけないだろっ」
陽一は手を離して叫んだ。思わず自分の指先を守る。
「これは喰いもんじゃねえんだ」
「じゃあ、髪の毛でもいい」
陽一の髪の毛は短く切っているので、鬼にあげるほどないと思った。
「これもダメだ。ていうか、俺の体は喰いもんじゃねえの」
「お腹空いたもん」
「それよりも晶はどこにいるんだよ。そっちの方が先だ」
鬼はあらぬ方を見るとつーんとした。その態度に陽一はむっとする。
「何だよ、その態度」
「お前、意地悪だ。あたしは子どもだよ。お腹が空いたのにくれないんだね」
そう言って、しゃがみ込んで足をバタバタさせた。
「もう、動けないっ」
鬼は駄々をこねた。陽一はいらいらとして辺りを見渡した。
真っ暗で何もない。
「何が欲しいんだよ」
「お兄ちゃんの爪でも髪の毛でも何でもいい。ちょっとでいいんだよっ」
「俺は痛いのは嫌なんだよっ」
「痛いのは当たり前だろう?」
「だったら、お前が我慢しろっ」
二人は睨み合った。
陽一は小さい子と一体何を言い争っているのだと気がついた。
「ごめん、俺、年上なのに大人げなかったよな」
「ようやく分かったか。じゃあ、指をくれるか?」
「それとこれとは別。晶はどこにいるんだよ」
「指をくれたら教えてやる」
ちっとも埒が明かない。すると、鬼が声を変えた。
「じゃあ、カタチがなくてもいい」
「へ?」
「お前の心でもいいよ。お前の記憶、記憶なら喰ってやる」
「何を言っているんだ? わけが分からねえ」
「分からないか? あたしは痛くないものを喰ってもいいと言っているんだよ。お前の記憶ならお腹いっぱいになると思う」
「記憶?」
そんな物が喰えるのか?
「痛くないんだな……」
「うん。痛くも痒くもない」
陽一は悩んだ。
指だったら血が出る。でも、記憶だったら痛くもなんともないらしい。
「俺の記憶なんて、まだ、十六だし……。ちょびっとしかないけど」
「いいのか?」
鬼が目をキラキラさせる。
そんなに記憶が欲しいのだろうか。
「俺の記憶って、たとえばどんな?」
「たとえばそうだな……。お兄ちゃんが生まれた時に見た母親の顔とか」
「そんなんでいいのか。俺、生まれた時の記憶ねえし、母さんの顔なんて覚えてねえ」
「手を貸せ、それだけでいい」
陽一は鬼に手を差し出した。カエデのように小さい手のひらはやけに熱かった。陽一は一瞬、胸がちくりとした。が、他に変化はない。
鬼はうれしそうに笑っていた。
「うまいな。お前の記憶はすごく温かくてうまかった」
「それならいいけど……」
陽一は、鬼と手をつないで再び歩き出した。
「どこまで行くんだ?」
「陽一郎の話をしてやろうか」
「いい。それよりも晶に会いたい」
「分かった。もうすぐ、晶に会えるよ」
「もうすぐってどれくらい?」
「お前が死ぬまでかな」
鬼の言葉に体が凍りつく。
「は?」
「あたしはお前が気に入った。ここから返すつもりはない」
「ふざけるなよ……」
「ふざける? ふざけていない。夜久弥とあたしとお前、三人でこの世界で暮らせばいい」
このガキっ……。
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