第2話 十六歳の少女



 おかしな男から逃げ出した陽一の心臓は激しくドキドキしていた。

 実は、陽一にはどうしても理解できない記憶があった。


 幼稚園に入る前からずっと自分はうぐいす姫と結婚するのだ、と思い込んでいた。

 幼稚園の頃の将来の夢に『うぐいす姫のお婿さん』とまで母親に書かせたくらいだ。

 まあ、小学校の高学年の頃にはアホらしい夢だと思うようになっていたが。


 何が、うぐいす姫だ。


 自分はこれからかわいい女の子と出会って、デートしたり手をつないだりするのだ。

 そんなおとぎ話、ましてやうぐいす姫なんているわけないだろ!


 バカげた夢を幼い頃とはいえ、自分が語っていたとは。

 思い出すだけで虫唾が走る。


 なのに、たった今、変質者のおっさんはなんと言った?

 うぐいす姫を探しているんだろう?


「うわーっ」


 陽一は上り坂をぐいぐいと漕いで駆け上がった。


「こえー、怖すぎるっ」


 あのおっさんが出してきたサングラスなんだ? この暑い中、てめえがしろってんだ。


 思い切り自転車を漕いだので、坂の上に到着した時には汗が滝のように流れていた。


「あー、もうマジ死ぬ……」


 ぜいぜい言いながら近くの公園へと入った。どこか涼しい場所を探し、日陰に入ると、ちょうどそこに水飲み場があった。顔を洗うために近づく。


 口に水を含んでうがいをした。生ぬるい水だったが、少しだけ気分が落ち着く。


「はあ……」


 陽一はベンチにぐったりと座った。


「暑いと変質者が増えるってマジだな……」


 ボーっとするには外は暑い。暑すぎた。


「帰ろ……」


 陽一が身を起こしたその時、日陰から自分よりも年上の女の子が現れた。


 こ、今度はなんだよっ。

 身構えた陽一に女の子は話しかけてきた。


「大丈夫? 顔が赤いわ」


 切れ長の目は涼しげで薄い唇は色っぽく、肌の色は透き通るように白い。

 こんなきれいな子、見たことないや、と陽一はぽかんと口を開けた。


「あ、あの……」


 うまく答えられないでいると、女の子は陽一の目の前に立った。長い髪の毛をひとつにくくり、黒いワンピースの膝下からは綺麗な足が伸びていた。

 思いのほか胸が大きくて、陽一はどぎまぎした。


「わたし、困っているの」

「え?」


 陽一は目をぱちぱちさせると、女の子は手を伸ばして突然、陽一の手のひらを握った。陽一は魂を奪われたように脱力して女の子を見つめた。


「今宵は満月なの。あなたが見つけてくれないと、わたしたちは探すすべがない。お願いよ。うぐいす姫を見つけて、もう時間がないの」


 女の子の甘い声が頭に響いている。


 うぐいす姫? そんなのいないよ。

 陽一は無意識に答えた。しかし、女の子は首を振って、陽一の唇に人差し指を当てた。


「探してくれたら、ご褒美あげるよ」


 女の子が囁く。暑さで頭が麻痺しているのに、ドキドキと胸が高鳴った。


 ご褒美って……。え?


 女の子は薄く笑うと、任せたわよと言った。


 気がつくと、陽一は炎天下の中、一人で突っ立っていた。

 そして、公園をたまたま通りかかった女性に肩を叩かれて我に返った。


「大丈夫? 生きてるよね」


 通りがかりの女性は心配そうに陽一の顔を覗き込んだ。


「わあっ」

「びっ、びっくりした。脅かさないでよっ」

「ご、ごめんなさいっ」


 陽一は自転車をつかむと、一目散に逃げ出した。


 あああ、もうっ。

 炎天下のせいで俺の頭がおかしくなったんだ、とその時は思った。




◇◇◇




 今年の夏はとくに暑い。

 夏は暑いものだと相場は決まっているが、年々暑さが厳しくなっている。分かっているのに、ついつい言ってしまうものだ。


 あきらはだらしなくソファの上で足を投げ出し、扇子で自分の顔を仰ぎながら、まいに向かってぼやいた。


「舞、暑いぞ、なんとかならんのか」


 エコ設定などもってのほか。エアコンをつけていても部屋の中は暑い。

 晶は扇子を放り出すと、少し前にショートに短くした前髪をいじった。

 大きなぱっちりした目、鼻筋の通った愛らしい少女である。足はほっそりしていて、身長は155センチと小柄だが、まだ十六歳だし、これから伸びるはずだと信じている。


「おい、まい、聞いているのか」

「聞いていますよ」


 キッチンで洗い物をしながら舞が返事をした。

 彼女も晶と同じく十六歳の少女だが、晶とは正反対で清楚な少女だ。

 まっすぐに伸びた背中までの長い髪は金髪。舞の肌は透けるように白く、二重の目はくっきりとして薄い唇の形も整った美少女である。身長は160センチあり、彼女もまた、これからもっと伸びる予定である(と本人は思っている)。


 片づけを終えた舞は、冷凍庫からミニカップのアイスクリームを出して晶に渡した。


「どうぞ」

「うむ」


 晶は受け取って蓋を開けた。

 チョコチップの入ったクッキーアイスクリームに晶の顔が輝いた。

 彼女はアイスクリームが大好きだった。

 スプーンですくって口に入れる。甘いアイスクリームが舌の上で溶けた。


「んまい……」

「晶さま、今日は陽一郎さまに会いに行かないのですか? 今宵は満月ですよ。そろそろ会ってお話しなさった方がいいと思いますけど」

「ん? 誰だ、陽一郎って」

「また、とぼけたりして」


 舞は自分もアイスを手に取ると向かいのソファに座った。一緒にアイスクリームを食べ始める。


「晶さまの運命の相手です。今年の夏で十六歳ですわ」

「そうだったかな」


 晶は一生懸命アイスを食べている。

 天真爛漫なその姿はあどけなく、同じ年の舞は思わず笑ってしまった。


「なんだ? 何を笑っている」

「晶さま、かわいい」


 舞の言葉に、晶は顔をしかめた。


「何がかわいいだ。ふざけたことを申すな」

「あああ、どうして髪を切ったのです? すごく似合っていたのに」

「長い髪は暑い」


 晶は先日まで髪を伸ばしていたのだが、暑い暑いと言って、ばっさりとショートカットにしてしまった。それが舞には残念でならない。


「髪の毛などすぐに伸びる」

「まあ、そうですけど」


 舞も最後の一口まで食べてしまった。


「ごちそうさまです。それにしても今日も本当に暑いですわね。陽一郎さま、大丈夫かしら」


 舞が意味ありげに言って晶を見た。


「どういうことだ?」

「だって、あの方、少しおっちょこちょいでしょ。この暑さで体が参ってしまうのではないかしら」


 晶は少し考えた。

 この時代に転生してから、とりあえず毎日、陽一郎の様子をこっそりと観察している。しかし、今世こんせいの陽一郎は今までと少し違った。


 過去の陽一郎は、皆、かしこくてはきはきと物を言う頼もしい少年だった。しかし、今の陽一郎はなんというかその……はっきり言うとアホなのだ。


「あれは本当に陽一郎の生まれ変わりだろうか……」


 自転車で移動をする陽一郎はすでにまっ黒に日焼けして、夏休みに入ってからは、毎日、友達と遊びまわっている。

 晶もそんな元気な陽一郎を見るのがほんの少し楽しみで、今日は何をするのかなと思うだけで心が弾んだ。

 しかし、今日はまだ会いに行っていない。

 会うといっても、彼に気づかれないようにこっそりと覗くだけなのだが。


「追っかけって言うんだそうですよ」

「ふんっ」


 晶は屑かごにアイスのパックを捨てると、キッチンへ行って手を洗った。


「どこへ行かれるのです?」

「散歩っ」


 晶が言うと、舞はあたふたと立ち上がり、あとを追いかけた。


「晶さま、日焼けするから日傘をお持ちください」

「うむ」


 黒い日傘を用意して二人は外へと出る。

 出た瞬間からセミの大合唱が聞こえた。太陽はカンカン照りで舞はげんなりしたが、晶はさっさと歩き始めた。


 黒い日傘を差した少女たちは割りと目立ったが、通りにほとんど人はなかった。

 さるすべりの花が住宅の庭のあちこちに見える。


 アスファルトのすき間からはハルジオンが咲いていて、ずっと日照り続きのためか花はしおれかけていた。

 晶は立ち止るとハルジオンに手をかざした。すると、少しだけ頭を上げて葉に力が宿る。晶は周りを見渡したが、影になるような建物はない。


「雨を降らすことまではできぬ」


 晶が小さく呟いた。


 晶は、陽一郎のけはいをたどり公園の方へ足を向けた。

 二人は公園に入ったが、この暑さのせいだろう、ほとんど人がおらず閑散かんさんとしていた。

 水飲み場まで来て呟いた。


「おらぬの」


 陽一郎の気配はここで消えていた。


「晶さま」


 舞が背後から声をかけた。


「ん?」

「これ」


 舞が持っていたのは、見覚えのある黒いキャップ帽だった。

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