~うぐいす姫~ 鬼と呼ばれた姫は月には還りません。

春野 セイ

第1章 第1話 鬼と呼ばれた姫




 はじまり



 あるところに鬼と呼ばれた姫がいた。

 鬼は、うぐいす姫と言った。

 誰がそう呼んだのか知らない。鬼になる前からそう呼ばれていた。

 

 ある時、うぐいす姫は人間を食べるようになった。体が欲するのだ。人間を食べたい。頭からばりばりと喰ってみたい。


 山奥に住んでいたうぐいす姫は山を下りて、村人を一人ずつ喰った。

 ある日、姫の元へ一人の若者がやって来た。


「村人を喰わないでくれ、俺が身代りになる」


 若者は自分を差し出した。

 うぐいす姫は承諾し、若者が死なないように術をかけた。

 片腕を残し、そこから元の姿に再生できるようにして毎夜、若者を喰った。

 

 うぐいす姫を恐れた村人たちはこのままではいけないと思い立ち、うぐいす姫を襲った。

 村人全員によって、うぐいす姫は殺された。



◇◇◇

 


 静かな夜だった。

 風の音もなく虫の鳴き声すらも聞こえない。


 陽一郎よういちろうは右腕を支えて立ち上がると、庭へ降りて空を見上げた。

 丸い月が出ていた。


 月は白く、周りにかさができていた。

 生ぬるい空気が漂っている。雨でも降るのかと思い、陽一郎は屋敷へと顔を向けてぎくりとした。

 うぐいす姫がこちらを見ていた。


「お前、ここに参れ」


 しゃがれた声で呼ばれる。

 初めて彼女を見た時、なんて美しい姫だろうと思ったが、自分を差し出してからうぐいす姫は醜い鬼の姿に変わっていった。


 陽一郎は言われた通りにうぐいす姫の隣に座った。うぐいす姫は、陽一郎の右腕を刃物で切り落そうとしてためらった。そして、陽一郎の腕から手を離して空を見上げた。


月暈つきかさが見えるの」

「ええ」


 陽一郎が素直に頷いた。

 うぐいす姫は刃物を置くとふらりと立ち上がり、どこかへ行ってしまった。


 喰わないのだろうか。

 陽一郎は思ったが、姫はすぐに戻ってきた。手にさかずきを持っている。


「飲め」


 陽一郎にも盃を持たせ、徳利とっくりを傾けた。

 陽一郎は一口飲んだ。甘い酒だった。


「うまいです」


 陽一郎の答えにうぐいす姫が、一瞬笑った気がした。そして、陽一郎の右手を見て言った。


「右手をよこせ」


 陽一郎は感覚のない右手を左手で持ち上げて差し出した。

 うぐいす姫はそれをじっと見て、自分の手のひらを陽一郎の右手にかざした。感覚のない手が生気を取り戻し、指先に爪が生えた。

 驚いて顔を上げると、口を真横に結んだうぐいす姫の顔があった。


「ここを出て、どこかへ移らぬか」

「え? 場所を替えるのですか」

「うむ。お前を喰うのはやめる。お前、名は何と言うのだ」


 ここに来て数カ月だが、いつしか名前で呼ばれることはなくなっていた。

 俺の名も忘れてしまったのか。

 戸惑いながら、陽一郎ですと答えた。


「よい名じゃ」


 うぐいす姫は笑うと、立ち上がった。


「お前は自由じゃ。我はここを立ち去る。お前は村に戻れ」


 陽一郎は気付かぬうちにうぐいす姫の手をつかんでいた。


「俺も一緒に参ります」

「……うむ」


 うぐいす姫はさっと肩をそびやかすと、奥へ去った。陽一郎はすとんとその場にしゃがみ込んだ。


 夢だろうか。

 なぜ、彼女について行くなどと言ってしまったのだろう。

 けれど、一人ぼっちの彼女のそばにいるのは自分の役目だと思っていた。


 その時、かつん、と石がはじける音が聞こえた。不思議に思って顔を向けると、暗い森の奥から村人が何十人も現れた。皆、手には斧や矢を持っている。


「な、なにを……」


 いきなり村人が飛びかかって来て、口を塞がれた。足で背中を押さえつけられる。


「声を出すなっ」


 村人が斧を突きつけて、陽一郎に言った。


「待てっ」


 その時、やしろの奥からうぐいす姫が村人たちに引きずられてきた。赤い袴がずたずたに引き裂かれている。

 村人に髪の毛をつかまれたうぐいす姫は、顔を床に押し付けられた。


「早く鬼を殺せっ」

「この男はどうする。鬼の仲間だぞ」

「男も殺すんだっ」


 陽一郎の首筋に刃が差しこむ。首筋を熱い血がしたたった。それを見たうぐいす姫が叫んだ。


「その者を殺すなっ。殺してはならぬっ」

「知っているんだぞ。男を殺せば、こいつは二度とよみがえることはできない。そうだろう」


 うぐいす姫はそれを聞くなり、力いっぱい両手を広げて村人をはじき飛ばすと、陽一郎の方へ飛びかかって来た。

 その時、二人に向かっていっせいに矢が放たれた。


「やめよっ」


 うぐいす姫は背中や腕に矢が刺さるのも構わず陽一郎をかばった。ひとつの矢が陽一郎の胸に刺さった。陽一郎がぐらりと傾いた。


「陽一郎っ」


 うぐいす姫はすぐさま陽一郎の胸から矢じりを抜いてすぐに傷口に手を当てた。

 みるみるうちに傷がふさがる。


 陽一郎が目を覚まし体を起こすと、うぐいす姫の頬にそっと手を添えた。

 うぐいす姫が悲しげにほほ笑んだ。それから、村人たちを見た。


「うぬらの望む通り我が消えよう。だが、もし、陽一郎に手をかけてみろ。貴様ら、後悔させてやるからな」


 そう言って、うぐいす姫は、陽一郎の手を握り締めた。

 陽一郎がハッとすると、彼はいつの間にか短刀を握っていた。


「これで、我を殺せ」


 え? と陽一郎が思った時にはもう、うぐいす姫の手に重ねられた手の刀が彼女の胸を貫いていた。

 うぐいす姫は絶命していた。


 呆然とする陽一郎を前に村人たちが、わあーっと歓声の声を張り上げた。


 これで鬼におびえる生活はなくなった。


 その時、月の光がまばゆく輝き、陽一郎が抱いているうぐいす姫の亡骸なきがらへと落ちた。

 村人は声を殺してそれを見つめた。


 陽一郎の腕の中のうぐいす姫がさらわれそうになる。陽一郎は奪われまいと必死で抱きしめた。

 村人が叫んだ。


「鬼を奪われるなっ。月の力でよみがえるかもしれん」


 村人は月に向かって矢を放った。しかし、月は遠すぎて届かない。


「鬼を燃やせ」


 陽一郎が叫んだ。


「やめろっ。これ以上、うぐいす姫を悲しませないでくれっ」

「鬼が悲しむものか。肉親をどれだけ殺されたか、お前も知っているだろうっ」


 陽一郎はうぐいす姫の体を強く抱きしめた。体はひんやりと冷たい。


「そいつをよこせっ」


 足で蹴られても陽一郎は、うぐいす姫から離れようとしなかった。


「もういいっ。こいつも一緒に焼き殺せっ」


 火が放たれ陽一郎は炎の中でも、うぐいす姫を離さなかった。

 

「俺は彼女と共に死ぬ。うぐいす姫のいない生活など考えられないからだ。だが、俺は生まれ変わってもう一度、うぐいす姫に会う。会って伝える。伝えたいことがあるんだ」


 陽一郎はそう言うと、静かに目を閉じた。

 その後、村へと戻った人々は流行はやり病が原因で多くが死んでしまった。


 これより先は、その後の話である。





◇◇◇





「くそ……、あっちい……」


 笹岡ささおか陽一よういちは自転車を一生懸命こぎながらぜいぜい息をした。頭の上では雲ひとつない青空が広がり、入道雲までそびえている。


 夏休みに入って友達とプールへ行く約束をしたのに、入り口まで来た所で財布を忘れたことに気がついた。


 友達は金を貸してやると言ってくれたが、お小遣いをそんなにもらっていない陽一は、返せるかどうかの心配をするぐらいならと断り、結局帰ることに決めた。

 財布をどこに置いたのか見当もつかないが、中身があったかどうかもあやしい。


「あああ……っ」


 陽一は上り坂を前に自転車を下りた。


「このままじゃ暑くて死ぬ……」


 自転車をのろのろと押して歩いていると、前の方からなんだか目つきの悪い年配の男が歩いてくる。

 この暑い中、長袖のシャツを着ていて、おかしいんじゃないのか? と陽一は思った。


 男とは目を合わせないようにしよう。ちょっと身構えると早足にすれ違った。


「おい」


 すれ違った瞬間、男が急に話しかけてきて陽一はびっくりした。


「は、はいっ」


 びくっとして思わず立ち止まってしまった。

 や、やばい。刃物かなんか出してきたら、どうしようっ。


 あわてて周りを見たが、住宅街で誰も歩いていない。男は、陽一の真横に来てじろじろ見た。


「お前、笹岡陽一だな」


 長袖の男が自分の名前を言った。


「え、な、なんで俺の名前っ」


 変質者、決定!

 びっくりする陽一に男が何か突き出した。


「わあっ」


 陽一は思わず頭を押さえた。がしゃんと自転車が横に倒れる。


「これを受け取れ」


 男が持っていたのは黒いサングラスだった。


「へ?」


 おそるおそる手を下ろして男を見ると、サングラスを突きだす真剣な顔があった。


「い、いらねえよっ」

「味方になれ、と言っているんだ」

「はあっ?」


 わけが分からず、陽一は倒れた自転車を起こした。

 くそ、チャリに傷がついた。母さんに怒られる、と自転車に傷がないか確かめていると男が言った。


「聞いているのか、笹岡陽一」

「聞いてますよ。けど、何だよ。あんた、わけわかんないこと言ってんじゃねえよ」

「お前は笹岡陽一じゃないのか? うぐいす姫を探しているのだろう?」


 男の口からうぐいす姫の名前を聞いた瞬間、陽一は自転車に飛び乗ってその場を逃げ出した。


 うわーっ、い、今のはなんだっ。


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