四日目の昼


 昼食の入った紙袋を持って、翡翠の様子を見に【Kingdom】にやって来たトワは、スタッフルームのドアを開け、の当たりにした光景に絶句した。



「お前、何やってんの……」


 トワが呆れた声を出した理由は、てっきりソファで寝てると思っていた翡翠が、スーツ姿のまま、まるで屍のように床に転がっていたから。



 うつ伏せになり、辿り着く前に力尽きたという感じでソファの方に腕を伸ばして転がる翡翠は、酒を大量に飲んでいる所為かいびきを掻いている。



 その翡翠に近付き、顔の近くにしゃがみ込むと、ブランデー独特の甘い匂いがした。



「翡翠起きろ」


「ん……」


「翡翠」


「んー」


「起きて飯食え」


「……いらねえ……」


 目覚めたらしい翡翠はそれでも目を開けようとはせず、しわがれた声で「寝る」と言う。



 放っておいたら二秒も掛からず眠ってしまうと察したトワは、すぐに体を揺さぶって無理矢理翡翠の目を開けさせた。



「とりあえず床で寝るのはやめろ」


 薄っすらと瞼を開いた翡翠に、ソファを指差しながら忠告すると、翡翠は心底面倒臭そうに体を起こし、ヨロヨロとソファに向かう。



 その姿を目で追っていたトワは、出来れば思い出したくはない昔の事を思い出し、酷くやりきれない気持ちになった。



 ホスト時代、トワは翡翠のこんな姿をよく見た。



 家族を養う為に働く翡翠は、毎日動けなくなるほど酒を飲み、こうしてスタッフルームに屍のように転がっていた。



 それでも翌日にはまた酒を飲む。



 二日酔いや三日酔いどころの話じゃない。



 酒が切れないうちに次の酒を飲む所為で、いつの酒が残ってるのかも分からないくらいだった。



 その所為で体を壊したのは一度や二度の事じゃない。



 店のトイレで血を吐いているのを見た事もあるし、背中が痛いと裏でのたうち回ってる姿を見た事もある。



 何度か入院までする事態になり、このままこんな生活を続ければ死んでしまうんじゃないかと思った事もある。



 翡翠のそんな姿を見る度に、それもこれも藤堂家に父親がいない所為だと、トワはいつも申し訳ない気持ちになっていた。



 だから翡翠がホストを辞めてバーをすると言った時、もうこんな姿は見なくて済むとトワは心底ホッとした。



 自分勝手な思いだと分かっていても、酔い潰れる翡翠の姿を見たくないと思ってしまう。



 もう見る事はないだろうと思っていた姿を目の当たりにした今は、出来ればこのまま無理矢理家に連れ帰って、【Kingdom】で働くのをやめさせたいと思ってしまう。



 でもそんな事、どうして嫌なのか本当の理由を言えないトワに出来ないはずがない。



 トワに出来るのは。



「飯、ちゃんと食ってるのか?」


 翡翠の体を心配するくらいだ。



 ソファに辿り着いた翡翠は、「栄養は酒で取ってる」と答えて崩れるように座り込む。



 脱がずに床に転がっていた所為でスーツはどこも皺くちゃで、見るに堪えないその姿からトワは自然と目を逸らした。



「昼飯、心実から預かってきたから食えよ」


「心実? 何で心実?」


「昨日電話あったろ。随分適当にあしらったみたいだけど」


「あー、そういやあったような気がする。あんま覚えてねえけど。って、あれ昨日か?」


「昨日の朝だ。そのあと俺に電話があった。心実怒ってるぞ」


「何で?」


「お前が適当にあしらうからだろ。それに心配もしてる」


「何を心配する事があんだよ」


「そうやって飯も食わずに酒ばっか飲むからだろ。今日、弁当届けてくれって電話が掛かってきた」


「食欲ねえ」


「ちょっとだけでもいいから胃に入れろよ」


「んー」


「弁当、手作りだぞ? 心実と藍子ちゃんの」


 言いながら、トワが持っていた紙袋を差し出すと、翡翠は「藍子?」と笑ってそれを受け取った。



 そして、どこか嬉しそうな表情で紙袋から弁当箱を取り出し蓋を開け、今度は声を出して笑い始めた。



「藍子、心実に無理矢理手伝わされたか」


 ゲラゲラと笑いながら指で卵焼きを抓んだ翡翠は、ヒョイッと口の中に放り込み「にげえ」と笑う。



 それが藍子の作った物だという事は、コゲ具合からトワにも一目瞭然だった。



 翡翠と藍子の間にある、背徳的な関係を当然トワは知っている。



 それに対してトワが否定するような事を何も言わないのは、翡翠の気持ちを知っているから。



 ただトワが知っているのは翡翠の気持ちの方だけで、藍子がどんな気持ちでいるのかは分からない。



 藍子が翡翠をどう思い、どんなつもりで体の関係をもっているのか皆目見当もつかない。



 それはトワだけでなく、翡翠にも分からないのだと、過去に翡翠本人が言っていた事がある。



 でも翡翠は藍子に何も聞くつもりはないと言い、知る必要はないのだとも言っていた。



 翡翠の気持ちを知っているトワからすれば、確かにそうだと思う。



 藍子が何をどう思ってるのか知る必要はなく、むしろ知らない方がいいのかもしれない。



 現状を維持する為には、無理に知ろうとしない方がいい。



 どうせいつかは嫌でも知る事になり、少なからず現状は変わる。



 どう変わるのか現時点では想像も出来ないが、「その時」は近い将来必ず来るだろう。



 そう思っているからこそ、トワは何も言わず、この兄と妹の行く末を見守ろうとしている。



 そして待っている未来がどんなものであれ、それを受け止めようと思っている。



 どんな未来になろうとも、トワが藤堂家の近くにいる事に変わりはない。



 それだけは、ずっと変わらない事だろうとトワは強く思っている。



 トワはこれから先も。



「風呂はどうしてる?」


 こうして藤堂家の人々を心配し、気遣っていくのだろう。



「近くのネカフェとか風呂屋とか。昨日は酒抜くのにサウナ行った」


「ちゃんと寝てるのか?」


「寝てたのにお前が起こしたんじゃねえか」


 そう笑って、最後のコゲた卵焼きを口に放り込んだ翡翠は、「残りはお前のだ」と弁当箱をトワに渡して天井を仰ぐ。



 トワの手元に戻ってきた弁当箱の中には、心実が作った美味うまそうな物だけが残っている。



 翡翠が、藍子の手料理だけは食べたかったのか、藍子の不味まずい手料理を食べさせるのはトワが可哀想だと思ったのかは分からないが、前者であり、後者でもあるのだろうとトワは思った。



「翡翠」


 トワの呼び掛けに、天井を仰いだまま翡翠は「んあ?」と返事をした。



 トワの方を見ないのは、何となくこの先の事を予想しているから。



 そしてその予想を。



「何で金がいる?」


 トワは裏切らない。



「何に金が必要なんだ?」


「…………」


「言えよ」


「…………」


「言わないなら、心実や藍子ちゃんに俺が知ってる事、全部話すぞ」


 トワのその言葉に、翡翠の目がようやくトワに向けられた。



 睨むように目を細める翡翠は眉を顰め、



「あいつらには絶対言うな」


 威圧的な低い声を出す。



 他の誰かなら怯んでいただろうその声に、けれどもトワは怯まなかった。



「なら、理由を言えよ」


 翡翠の力になりたいと強く思うトワは、鋭い目付きで睨んでくる翡翠をジッと見据えた。



 そんなトワの強い意志に翡翠は負けた。



 暫く無言で見つめ合ったあと。



「あいつらには内緒にしろよ?」


 そんな前置きをして、翡翠はようやくその重い口を開いた。

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