最終段階


 勉強というものに対してキャパの狭い藍子は、既に第一段階でいっぱいいっぱいになっていた。



 第二段階ではキャパオーバーになり、放心状態。



 そして最終段階では、キャパオーバーにも拘わらず勉強を続けた所為でストレスやジレンマを抱え、奇声を発する。



 ただ、最終段階に達するまでには小さいながらも不可思議な行動を取る。



 使っているペンをかじったり、時には突然シクシクと泣き出したり。



 だがその状態は、家族が見ていないところで行われる為、家族が最終段階に入ったと分かるのは、奇声を発し始めた時。



 最終段階に入ると、藤堂家は更にぎこちなくなる。





「今日はいい天気になりそうだな」


 朝の食卓。



 誰も天気の話をしていないのに――むしろ全員が無言だったのに――翡翠は唐突にそう口にした。



 シャワーを浴びた直後でまだ髪が濡れたままの翡翠は、前髪を後ろに流し、藍子をチラリと横目で見る。



 当の藍子はまるで聞こえていないかのように無言のまま、モソモソと朝食を食べ続けていた。



「いい天気になりそうだな」


 今度はさっきよりもゆっくりと言葉を吐き出した翡翠は、藍子の方に体を向けてガン見する。



 それでも藍子は俯いたままモソモソと朝食を食べている。



「藍子」


「…………」


「藍子ちゃん」


「…………」


「藍子さん」


「…………」


「なあ」


「…………」


「聞いてるか?」


「…………」


「妹よ」


「…………」


「聞いてくれ」


「…………」


「おい」


「…………」


「藍子」


「…………」


「おーい」


「…………」


「藍子」


 ようやく最後の呼び掛けで藍子がハッと顔を上げたのは、呼び掛けが耳元で行なわれた囁きだったから。



 食べる手を止めた藍子は、二度パチパチと瞬きをして、スッと翡翠に目を向けると、「え? 何?」ときょとんとした表情で聞く。



 とどのつまり藍子は本当に、翡翠の声が聞こえていなかったらしい。



「今日はいい天気になりそうだ」


「うん」


「なあ、どうだろう。天気がいい今日くらいは放課後の勉強を休んで心実と買い物にでも行ってみるのは」


「……ううん」


「金の事なら心配いらねえぞ? お兄ちゃんが出してやる」


「ううん」


「心実の事も心配ない。心実も行きたいって言ってる」


「ううん」


「欲しい物ないか? 服とかアクセサリーとか欲しい物あるだろ? あるんだろ? あるよな?」


「あるけど……」


「じゃあ、心実と買い物にでも行ってこい。な? たまには外の空気を吸ってみるのもいいもんだ」


「ううん。いい」


「いいって事は行くって事か?」


「ううん。行かない」


「遠慮してんのか? 遠慮はいらねえぞ? 藍子の欲しい物は何でも――」


「あのね、お兄ちゃん」


「――ん?」


「昨日全然勉強出来なかったの。してたんだけど頭に入って来なくて」


「…………」


「それで今朝早起きして勉強しようと思ってたのに、早起きも出来なかったの」


「…………」


「赤点三つ以上取ったら、夏休みに補習受けなきゃなの」


「…………」


「昨日勉強出来なくて今日テストがある二教科は赤点確定だから、明日は頑張らなきゃいけないの」


「…………」


「だから勉強しなきゃ」


「そ、そうか」


「うん。そうなの」


「……分かった」


 返事をしながら翡翠はチラリと心実に視線を向けた。



 向けた視線には「助けてくれ」という気持ちが込められている。



 心実はその翡翠の気持ちを嫌ってほどに感じ取り、黙ってそれを受け取ると、「ねえ」と藍子に声を掛けた。



「藍子の言い分は分かるけどさ。ちょっと休憩したらどう? 昼間はあたしと買い物行って、夜に勉強すればいいんじゃない?」


「ううん。やめとく」


「でも休憩も必要でしょ。ほら、息抜きっての? 根詰めすぎると上手くいくもんもいかな――」


「明日、数学のテストあるから」


「――す……うがく……」


「うん」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「…………」


「……うん。それは勉強しなきゃだね」


「うん」


「数学は……ね」


「うん」


 心実の援護もここで終わった。



 算数すら危うい藍子に「数学」という言葉を出されたら何も言えない。



 最終段階に入った藍子が心配だが、藍子の一番苦手な「数学」のテストがあるというのなら、藍子の気が済むまで勉強させてやる事が藍子の為だと、翡翠と心実は思う。



 ここは静かに藍子を見守り、勉強させてやるのが優しさだと。



 だが。



「お姉ちゃん、ごめん。食欲ないからもういいや。着替えてくるね」


 分かりやすく元気のない藍子が断わりを入れてリビングを出て行ったあと、



「あとはトワに託すしかねえ」


「だね」


 翡翠と心実は、トワならどうにかしてくれるだろうと期待する。





「藍子ちゃん、今日はドライブに行こうか」


 帰宅した藍子に、これまで何人もの女性を虜にしてきた優しい笑顔を向けたトワは、いつもよりも更に優しい声色で提案した。



 当然この提案は、翡翠と心実の意思を受け継ぎされている。



 どうにか藍子に気分転換をさせ、ストレスを軽減させたいという意思の許にある。



 最終段階に入ってしまえば、どんなに勉強をしたところで、藍子の頭には全く入らないのだからと皆が皆思っている。



――ただ。



「でも勉強しなきゃ……」


 それは本人を除いて。



 トワの提案に首を横に振った藍子は朝よりも更に元気がない。



 思っていた以上に今日のテストが出来なかったのか、午後の図書館の勉強が捗らなかったのか。



 それとも、その両方かもしれない。



 幼稚園児の琢が見ても元気がない藍子に、トワは笑顔を継続したまま、「うん」と返事をする。



 そして。



「今日は車で勉強しようと思って」


 甘い声でそう言うと、「だから今日はドライブに行こう」と、への字口の藍子に再度提案した。



「車で勉強?」


「うん。たまにはいいかなって。勉強する環境を変えるのも必要だよ」


「車で勉強出来る?」


「出来る、出来る。夜景を見に行って、そこで勉強する」


「夜景?」


「うん。いいスポットがあるんだ。壮観だよ」


「夜景……」


「行ってみたいでしょ?」


「……うん」


「じゃあ、ご飯食べたら出掛けよう」


「……うん」


「教科書とノートも持ってね」


「はーい」


 そんなふたりの会話をキッチンで聞いていた心実は、途中何度も「いいから行ってきな!」と言い掛けた言葉を呑み込んだ。



 心実はこの時期の藍子にはなるべく怒らないように心掛けている。



 勉強以外のストレスを与えないように努力している。



 好物ばかりの晩ご飯を食べた藍子は、トワとドライブに出掛けた。



 夜景の見える高台で、実際藍子がしっかり勉強出来たのかは疑問である。



 それでも、家と学校と図書館ばかりの毎日を送っていた藍子が、ドライブで気分転換が出来たのは確かだったらしい。



 その夜藍子はペンを齧る事も奇声を発する事もなく、夜遅くまで勉強をしていた。

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