通例行事③
元々都心部に程近い場所に住んでた惣一郎が、あたしたちが住む神有町から二駅離れた場所に引っ越してきたのは、ホスト時代あたしたちの家に来るようになって半年ほどが経ってからの事。
って言っても、あたしはその頃をよく知らないから、そんな話を藍子からチラッと聞いた事があるってだけ。
惣一郎を紹介された時、惣一郎は既に今のマンションに住んでたから、あたしにとっては最初からずっとそこにいたのと変わらない。
ただ、二駅離れてるっていう、遠からず近からずの距離が惣一郎らしいと思う。
距離を詰めるようでいて、一定の距離は保ったまま。
惣一郎は決してあたしたち家族の中に心底深く踏み込んでこようとはしない。
都心部に近い場所に住んでた時は、1DKのマンションに住んでたらしいけど、都心部から離れたこっちじゃ家賃も随分安いから、惣一郎はひとり暮らしのくせに3LDKのマンションに住んでたりする。
そのうちの一部屋は、あたしが「衣装部屋」と称するくらいに服で溢れ、ホスト時代に着てたスーツなんかもまだ置いてある。
ホストを辞める時、新入りのホストに結構あげたりしたらしいけど、無駄に身長が高い惣一郎のスーツが合う子はあんまりいなくて、結局こうして残ったまま。
いつか背の高い子が【Kingdom】に入るかもしれないと一応まだ取ってあるものの、こういう物は流行りもあるから少しずつ処分していってる。
それでもまだ一部屋埋まるくらいはある。
惣一郎みたいな奴の事を「着道楽」って言うんだと思う。
残り二部屋のうち、一部屋は寝室。もう一部屋は筋トレをする為に使われてる。
お酒を飲む、昼夜逆転の不規則な生活をしてると、どうしても体力が落ちるからって、惣一郎は暇があれば通販で買った器具で筋トレしてる。
でもあたしから言わせれば、体力どうこうっていうよりも、見てくれの為にしてるんだと思う。
惣一郎は生まれ持った、一般人以上に美しい容姿を更に磨く努力を怠らない。
仕事が仕事だからなのか、そういう人間だからなのか、その真実は分からないけど、あたしは後者のような気がする。
そんな惣一郎が住む部屋は、
「惣一郎ってマメだよね」
「そう? 自分じゃそうは思わないけど」
「でも毎日掃除してんでしょ?」
「まあ、適当に」
いくら掃除をしてもどこか雑然としてる我が家と違って、片付けが行き届いてる。
まず玄関からして我が家とは違う。
余計な靴は一切出てなくて、常に「今」履いてる靴しかない状態がいつ来ても継続されてる。
廊下の隅にほんの少しの埃もない。
廊下の突き当たりにあるリビングのドアの硝子もいつもピカピカ光ってる。
そんな、あたしに言わせれば「潔癖」の域にも思える惣一郎の掃除の仕方は、本人に言わせれば「人よりちょっとだけ綺麗好き」なだけらしい。
でもその言い分には一理あるとも思う。
だって惣一郎は部屋を汚される事を嫌がったりしないから。
琢が泥だらけで部屋に入ろうが、リビングではしゃぎすぎてジュースを零そうが、惣一郎は「気にしなくていいよ」と笑って、嫌な顔ひとつしない。
あたしには到底真似出来る芸当じゃない。
我が家でそんな事された日には、あたしは確実に琢を怒る。
だからそういう面で惣一郎は、あたしよりも出来た人間だと思う。
「とりあえず入らない?」
玄関先で、そこから見える廊下やドアを眺めてたあたしを、惣一郎はクスクス笑って中に促す。
促されるまま靴を脱いだあたしは、
「珈琲淹れるから座ってて」
リビングに入るとすぐに、中央に置かれてるL字型の革張りソファを勧められ、五、六人は座れそうなそのソファの一番隅に腰掛ける。
座って程無くするとキッチンから珈琲の香りが漂ってきて、何気にそっちに目を向けると、惣一郎は鼻歌交じりにサイフォンからマグカップに珈琲を淹れてた。
惣一郎の部屋に来て、あたしがする事は何もない。
珈琲を淹れるのも、ふたり分の晩ご飯を作るのも惣一郎の役目で、惣一郎は自ら進んでそれらをする。
惣一郎は決してあたしに何かをして欲しいと言ったりしない。
あたしに何かをして欲しいと、思った事すらないかもしれない。
淹れ終わった珈琲を手にソファに来た惣一郎は、あたしの隣に腰を下ろしてローテーブルにカップを置き、
「何か食べたい物ある?」
あたしの返事は毎回同じなのに、必ずそう聞いてくる。
惣一郎にとっては、「答え」がどうこうっていうより、「聞く」って行為に意味があるんだと思う。
聞いたという過程が重要なんだと思う。
「何でもいいよ」
「んー、じゃあパスタは?」
「それでいい」
「んじゃ、心実の好きなトマトでパスタ作るよ」
そう笑って自分の珈琲をひと口飲んでから立ち上がった惣一郎は、「手伝って」なんて無粋な事は言わずにキッチンに向かう。
ひとり暮らしが長いお陰で料理が上手くて手際もいい惣一郎には手伝いなんていらない。
物によってはあたしなんかより上手に作ったりするから、手伝おうとすれば逆に邪魔になる可能性が大いにある。
ただ惣一郎の作るものは、あたしにはちょっと歯痒くなる感じに小洒落てたりするから困る。
困るっていうのも変なんだけど……困る。
惣一郎の作るものは、言葉のニュアンス的に表現するなら、「晩ご飯」っていうよりも「ディナー」って感じで、慣れないあたしは気恥しくなる。
真鯛のカルパッチョに、ホタテのソテー。トマトとツナの冷製パスタに、フランスパン。
そう長い時間も掛けずに、どこぞのイタリアンレストランに来たみたいなメニューがふたり掛けのダイニングテーブルに並べられる。
休みの日にはワインなんかも置かれちゃって、これでキャンドルがあれば完璧に出来上がる。
でも正直、晩ご飯なのにパンってどうなのって感じ。
我が家の晩ご飯にパンなんか出した日には、バカな兄は文句を言い、妹はポカンとする事間違いない。
家族がそんな風なんだから当然あたしもそんな感じで、普通の女なら――何が普通なのかその定義は分からないけど――喜びそうな惣一郎の持て成しも、あたしは持て余す。
ただその「ディナー」は、持て余すってだけで嫌な訳じゃない。
他の男がやったなら、「気取ってんじゃねえよ」とか「勘違いしてんじゃねえよ」って思うかもしれないけど、惣一郎相手だとそういう感覚は湧いてこない。
気恥しいってだけ。
その気持ちを持て余す。
そのうち慣れれば何とも思わないものになるのかもしれない。
未だ慣れないって現実は確かにあるけど。
我が家にはない洒落たインテリアで統一されてる惣一郎の部屋は、ダイニングテーブルも何だか洒落てる。
そこに向かい合って座ったあたしたちが、「ディナー」の後半にする会話は毎度同じ。
あたしたちは。
「あっ、そうだ。心実。琢のランドセルの事だけど」
「ランドセル?」
一緒にいると大抵の場合、あたしの家族の話をする。
内容は違えど、必ず家族の話題になる。
「小学校に入る時、ランドセルいるだろ?」
「うん」
「それ、俺が買うから」
「来年の話じゃん」
「でも先に言っとかないと誰か買いそうだから」
「そこまでしなくてもいいよ」
「いや。逆。それくらいはさせて」
「…………」
「翡翠にも言っておいて。あいつ、早めに買いそうだし」
「……分かった」
「勉強机も買うなら、俺が買うよ」
「いらない。置くとこないし。勉強机なんか置いたら、あたしの部屋狭くなんじゃん」
「翡翠の荷物部屋は? あの部屋、琢にもらえるって言ってなかったっけ?」
「くれるらしいけどまだいい。小学生で自分の部屋なんて早すぎるでしょ」
「まあ、買うなら言って」
「うん」
「他に要る物ない?」
「分かんないって。来年なんだし」
「色々揃える買い物行く時、声掛けて」
「来年ね」
「必要な物があったら何でも俺に――」
「ねえ本当に、そこまで気にしなくていいから」
「…………」
「琢の事はまた別でしょ」
「でも、心実の子だから」
言ってジッとあたしを見つめる惣一郎の瞳が揺れる。
あたしはこの瞳を見る度に、無性に腹立たしくなる。
でもそれは惣一郎に対しての感情じゃなくて、どちらかといえば置かれてる現状にって感じだと思う。
ジレンマに近いものなのかもしれない。
過去に対して何も出来ないって現状が、こういう感情を湧き上がらせるんだと思う。
そしてその感情を抱くのは、決してあたしだけじゃない。
「珈琲淹れてくる」
そう微笑んで立ち上がった惣一郎も同じ感情を抱いてる。
言葉にしなくてもそれが嫌ってくらいに分かってしまうから、あたしは更なるジレンマを抱く。
そんな、どうにも出来ない事への苛立ちというジレンマを忘却するように、あたしと惣一郎は体を重ねる。
惣一郎が「ディナー」の後片付けを終えたあと。
本気で見る訳でもないテレビを点け、並んでソファに座って暫くすると、髪に触れられる。
「心実」
囁き声を聞き、まるで儀式のようだと思う。
あたしの髪を掻き上げて首筋にキスをしてくる惣一郎の、その動きはいつも同じで儀式のように感じる。
目を合わせると唇が近付いてくる。
何度も啄ばむようなキスを繰り返す。
繰り返していくうちに深くなっていくキスに、時々息苦しさを感じる。
抱き寄せられ、唾液を混ぜ、お互いの呼気が荒くなり始めると、
「ベッド行こう」
寝室に誘われる。
薄暗い寝室で激しく求め合うあたしたちは、多分この行為を儀式だと思ってる。
この一瞬、何も考えずにいられるようになる為の儀式。
肌に触れ、触れられて、湧き上がる感情は安心。
でもそれ以上に虚しさみたいな感情も湧き上がってくるから、更に激しく求め合う。
「心実」
囁かれる声。
「待っ、て」
強く握られる手。
「待て、ない」
埋め込まれた熱を奥深くに感じ、自然と揺さぶられる体。
惣一郎の腕の中にいるあたしの裸体を湿らせる汗は、吐き出したい感情が変化したものなのかもしれない。
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