通例行事①


「母ちゃん」


「…………」


「母ちゃんってば」


「…………」


「母ちゃん、腹減ったあ」


 そもそも子供ってもんがどういうもんなのか知らないけど、あたしの琢は毎朝空腹を感じて目覚めるらしい。



 しかもいつも大抵六時十分辺りで、その体内時計の正確さに驚かされる。



 平日も休日も琢には関係ない。



 一応毎朝五分くらいは寝た振りして誤魔化そうと試みるけど、「腹減った」って言われたら無視する訳にはいかなくて、揺り動かされる体を渋々起き上がらせる羽目になる。



 ふたつ並んだ布団をとりあえず畳むだけ畳んだあと。



「藍子起こしといで」


「うん!」


 部屋を一緒に出た琢は、藍子の部屋に走ってく。



 あたしは反対方向にある階段に向かって、まだボーッとした頭のまま階下に下りていき、七時に起きても間に合うはずの朝ご飯作りを始める。



 一般家庭の大半がそうであるように、いくら早く起きたとしても、朝は何だかやる事が色々あって忙しくなる。



 その上我が家には六時半頃に仕事から帰ってくる兄がいるから、忙しさは倍増する。



 パンと目玉焼きだけの朝ご飯が出来上がって食べ始めた頃。



「ただいま」


 疲れを隠そうとしない声を出す、兄のご帰還。



「翡翠君、おかえりい」


 誰よりも早くそう言う琢と。



「をぬうとぅわん、をくぁうぇうぃ」


 八割の確率で食べ物が口に入ってて、何言ってんのか分かんない状態になってる藍子に、兄は「おう」と声だけ掛けて、そのままリビングを横切ってお風呂場に行く。



 たまにその後ろについて来て、リビングに入ってくる惣一郎の姿が今日はない。



 毎日帰ってくるのかどうか分からない兄の朝ご飯は基本的に用意してない。



 帰ってきたら作るって事にしてるから、自分の朝ご飯を中座してキッチンに戻る。



 その間に琢はしっかり――時には藍子の分まで――食べ終わって、リビングのソファに走ってってテレビを点けるから、途端に騒がしくなる。



 キッチンにまで聞こえてくるテレビの音に耳を傾けながら、目玉焼きを焼いて珈琲を淹れる。



 何を勘違いしたんだか知らないけど、本格的な珈琲が飲みたいと言って兄が買ってきたコーヒーサイフォンは、手間が掛かって面倒臭い。



 そんな物買ってまで本格的な珈琲が飲みたいなら自分で淹れりゃいいものを、あたしにやらせる。



 大体、その「本格的な珈琲」とやらの為だけに、天然水のウォーターサーバーまで家に置くところがまず面倒臭い。



 キッチンに置かれてるから邪魔だし、ボトルがやたらと高額だったりする。



 そこまでして「本格的な珈琲」が飲みたいなら、いっそ喫茶店でも開けばいいじゃないかと思うけど、そこはまあ養ってもらってる身としては口には出せない。



 珈琲を淹れ終わって食卓に戻ると、タイミングを見計らったようにシャワーを浴び終えた兄がリビングに入ってくる。



 兄は、まだモタモタと食べてる藍子の隣の席に腰を下ろして、珈琲をすすり、



「何か俺に言っとく事ないか?」


 家族に問題が起きてないかの確認という、藤堂家のあるじとしての役割を果たそうとする。



 でも朝のこの質問には然程さほど意味がない。



 あたしも藍子も、その日帰ってくるか分からない兄には、何かある度にスマホにメッセージを送って報告するようにしてる。



 だから朝の兄のこの質問は口癖のひとつみたいなもので。



「別に」


「ふーん」


 兄も特別何かを聞きたいって訳でもない。



――ただ。



「あたし、お兄ちゃんの腕時計壊しちゃったかも……」


 時折例外がある。



 例外が「ある」っていうより、例外が「いる」。



 ようやく朝ご飯を食べ終わったらしい藍子がその例外で、



「腕時計って何だ!? どれだ!?」


「な、何か王冠があるやつ……」


 予想では、藍子は言うべきか言わざるべきかを朝まで悩んでたっぽい。



「王冠って、まさかロレックスか!?」


「かな……?」


「え!? ロレックス!?」


「……っぽい」


「ロレックス!?」


「…………」


「おい、お前、ロレックス舐めんなよ!?」


「舐めてないけど……」


「ロレックスがどうなった!?」


「パキッて音がした……」


「パキッ!?」


「でも音がしただけで壊れてないかも」


「何でそんな音が鳴るんだよ!?」


「踏んじゃったかもしれない……」


「踏んだ!?」


「で、でもそれは、お兄ちゃんが悪いんだよ! 床に置いとくから!」


「床になんか置いてねえよ! んなトコに置いとく訳ねえだろ!」


「置いてたよ! ベッドの足元にあったから、踏んじゃったんだもん!」


「俺はちゃんと机の上に――」


「あっ、それオレだ。翡翠君の腕時計で遊んで、そのあとベッドの上に置いた」


「あんだと!?」


 時々、例外がもうひとり増える時もある。



 テレビを見ながら話を聞いてたらしい琢は、顔半分をソファの背もたれで隠しながら、こっちを覗き見る。



「じゃあ、琢ちゃんがベッドの上に置いたのが床に落ちちゃったんだね」


「そう思う……」


 兄に怒られると思ってる琢は、既に半泣きの状態で。



「落ちちゃったんだから琢ちゃんは悪くないよ。琢ちゃんはちゃんとベッドの上に置いたんだし」


 それに気付いた藍子は、すぐに琢を慰める。



 そしてついでに。



「あたしも悪くないと思う。床に落ちちゃってたんだもん。運が悪かったってだけじゃないかな?」


 自分の仕出かした事もなかった事にしようとする。



 でも。



「お前らロレックス舐めてんの!?」


 兄がそれで許す訳がない。



 結局、琢と藍子は兄にしこたま怒られて、我が家のリビングはいつもと変わらず、朝っぱらから賑やかすぎるくらいに賑やかだった。

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