イレギュラー④


 井上先生との食事の時間は、やっぱり苦痛なものじゃなかった。



 話し方は乱暴だけど、話し掛ければ答えてくれるし、自分からも話し掛けてきてくれる。



 昨日の件があるからなのか、井上先生的にも今更何を取り繕っても意味がないって感じがあるらしい。



 話し方もさる事ながら、その内容も少々過激で。



「数学の坂城さかき、あいつ浮気してんだぞ」


 聞かされても反応に困る事まで言ってきた。



 あたしの学校の事以外にも色々と話をして、大学の話もいっぱい聞いた。



 あたしの学力じゃ大学行くなんて絶対に無理だからどんな所か知りたいって言ったら、「別に大したトコじゃねえよ」って言いながらも、楽しそうに大学生活の事を話してくれた。



 小学生の頃は宇宙飛行士になりたかったけど、理数系が苦手だからすぐに諦めたって話もしてくれた。



 井上先生いわく、宇宙と数学は深い関係があるらしい。



 今は将来の事をあんまり深くは考えてないと言う井上先生は、とりあえず教員免許を取っとくだけらしい。



 その理由を。



「教師なんかになるつもりねえよ。生意気なガキの相手なんかやってられっか」


 吐き捨てるように言ってた。



 そのあと、「んでも、お前は生意気じゃねえな」と付け加えて笑ったところを見ると、心底「生意気なガキ」が嫌いじゃないように思えた。



 会話に花が咲いたっていうほど大盛り上がりではなかったけど、楽しい時間を過ごしたと思う。



 案外お喋りな井上先生の話のネタは尽きる事がなくて、あたしも何度も笑わされた。



 だから気付いた時には思ってたよりも随分と時間が経っていて、



「なあ。お前のスマホさっきから画面が光ってっけど、電話掛かってきてんじゃねえの?」


 井上先生に、テーブルに置いてたスマホを指差し言われて血の気が引いた。



 慌てて手に取ったスマホに表示されてる時間は二十時十七分。



 画面には着信有りの表示と、新着メッセージ有りの表示。



 眩暈すら起こしそうな状況に、恐る恐る着信履歴を開いてみると、お姉ちゃんから鬼のように電話が掛かってきてた。



 怖すぎてメッセージアプリを開ける事が出来ない。



 図書館を出てからマナーモードを解除し忘れてた自分を呪いたくなる。



 この状況をどう回避すればいいんだろうかと焦った矢先に手の中のスマホの画面が光り、その画面に着信相手の「お姉ちゃん」の文字が出る。



 恐ろしさの余りに電話に出られなかった。



 何度か鳴った電話は留守番電話に転送されたのかプツリと切れる。



 だけど三秒も経たない内に再びスマホが光り始め――。



『てめえ、ふざけんな!』


――出ない訳にはいかないと覚悟を決めて出た途端、ブチギレしたお姉ちゃんの声が飛び出てきた。



 昔取った何とやら。



 その迫力は半端ない。



「あ、あの……」


『解約しろ! そのクソスマホ!』


「え、えっと……」


『何回掛けたと思ってんだよ!』


「お、お姉ちゃん……」


『ふざけんな! マジでブチギレた!』


「おね……」


『スマホぶっ壊してやる!』


 怒り狂うお姉ちゃんはあたしの声なんて聞こえてない様子で、あらん限りの声で怒鳴る。



 当然その声はスマホから洩れていて、正面にいる井上先生は目をまん丸くさせてる。



『今どこで何してんのか二秒で言え!』


「え、えっと」


『二秒だっつってんだろ!』


「い、井上先生とファミレス」


『はあ!?』


「ご、ごめんなさい」


『ざけんな! 謝って済む問題か!』


「ご、ごめ――」


『どこのファミレスか言え!』


「え、えっと、図書館の近くの、駐車場が広い――」


『十分で行くから逃げんじゃねえぞ!』


 そこで通話はブツリと切れた。



 十分で行くって言ってる辺り、この近くまで来てるらしい。



 逃げるも何も同じ家に住んでるから逃げたくっても逃げられないのに、ブチギレお姉ちゃんはそこまで考えるキャパをも失くしてるらしい。



 二、三発殴られるかもしれない。



 でもそれよりも本当にスマホを解約されちゃうかもしれない。



 考えれば考えるほど最悪の状況に、やるせない溜息が出た。



「今の何だ?」


 そんなあたしに井上先生から掛けられる問いは、当然と言えば当然のもの。



 漏れてた声が聞こえてただけじゃ、誰だってあたしが誰かに絡まれると思っても仕方ない。



 そしてそれは、井上先生も例外ではなく。



「お前、誰かにインネンつけられてんのか?」


 驚いた表情で聞いてきた。



「誰かにっていうか、今のお姉ちゃんで……」


「出戻りの?」


「はあ」


「え? お前の姉貴?」


「そうです」


「姉貴が何であんなにキレてんの?」


「時間を過ぎてるから……」


「時間? 時間って何? 門限?」


「まあ、門限といえば門限……ですね」


「え? 門限過ぎただけであんなにブチギレてんの? つーか、まだ九時前だぞ?」


「帰るのが遅い上に、何度掛けても電話に出なかったからあれだけ怒ってるって感じで……」


「いやいや、待て待て。それにしてもキレすぎだろ。つか、門限過ぎたくらいで何回も電話してくんのもどうだって話じゃね? お前の家、厳しいのか?」


「厳しいって訳でもないんですけど……」


「俺、話してやろうか?」


「へ?」


「姉貴来んだろ? 俺が引き止めたって言ってやるよ」


「いえ、いいです。そんな事で許してくれるお姉ちゃんじゃないし、井上先生巻き込む事になっちゃうから」


「巻き込むってか、俺にも責任あんだしよ。つかお前、門限あるならあるって言えよ。まさか今時門限ある家があるって思わねえだろ」


「あたしももうこんな時間だとは思ってなくて……」


「あー、やっぱ俺が話すわ。疾しい事はねえんだし、勉強して飯食ってましたって言や分かってくれんだろ」


「いえ、本当にいいです。っていうか、分かる分からないじゃないんで」


「は?」


「お姉ちゃん、あたしを心配してくれてるだけなんです。だから疾しいとか疾しくないとかって問題じゃないし、分かる分からないでもないんです。遅くなった事でもうダメだから」


「心配は分かるけど、あのキレ方はやりすぎじゃね?」


「そうでもないんです。理由があっての事なんで」


「理由?」


「あたし、中学の時に電車で痴漢に遭ったんです。夜の八時くらいの電車で。それから怖くて夜の電車に乗れなくなっちゃって。だから家族はあたしがあんまり遅くなると帰ってこれなくなるって心配してくれるんです」


「電車でって……そ、そういうのは俺は被害者じゃねえから気持ちは分からねえけど、それでも帰ろうと思えばタクシーでも帰れんじゃねえかよ。絶対に帰れなくなるって訳じゃねえだろ」


「タクシーは大抵運転手さんが男の人だから」


「は?」


「怖いんです」


「怖い?」


「車内に知らない男の人とふたりっきりで、どこかに連れて行かれるかもしれないって感じが怖いんです」


「…………」


「だからお姉ちゃんは心配してくれてるだけなんで、気にしないで下さい」


 言って席を立ったあたしは、



「このままだと先生がお姉ちゃんに何言われるか分からないから、先に出ますね」


 そう付け加えて「ご馳走さまでした」とお礼を言った。



 井上先生は何を言えばいいのか分からないって感じで立ち上がったあたしを見上げ、口を半開きにさせたまま固まっていた。



 けど。



「あっ、そうだ。井上先生」


 あたしが行きかけた足を止めて声を掛けると、ハッと我に返ったように表情を戻し、「何だよ?」と警戒するように眉を顰めた。



「昨日の事なんですけど」


「お、おう」


「あたし、昨日の先生の話を聞いててショックだったんです。でもどうしてショックなのかその時は分からなくて。理由を色々考えてたんですけど、それが今日分かりました」


「な、何だ?」


「先生?」


「何だよ」


「先生はとっても教えるのが上手だから、先生が先生にならない事はとてもショックです」


「…………」


「あたしは出来れば井上先生は、先生になって欲しいと思います」


「…………」


「実習、頑張って下さい」


 ペコリと頭を下げて店の出入り口に向かったあたしに、井上先生は何も言わなかったけど、その視線はずっと背中に感じてた。

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