姉と甥


 都心部から随分と離れた場所にある神有しんゆう町は、田畑なんかもある結構長閑のどかな所。



 その町の三丁目。



 トワさんが運転する白のセダンは、同じような造りの二階建の一軒家が並ぶ集合住宅地に入ってゆっくりとスピードを落とし静かに止まった。



 助手席の窓から目の前の家に目を向けると、玄関の照明灯とリビングに当たる部屋の電気が点いてる。



 テレビを見てるのか漏れてくる光が時折チカチカとする。



「トワさん、ありがとう」


 運転席に一旦顔を向けてお礼を言うと、トワさんは「どういたしまして」とニコニコ笑って。



「スーツは俺から翡翠に渡しておくよ」


 あたしがお願いするよりも先に言葉をくれる。



 皆まで言わなくても分かってくれるところが好きだな――なんて思いながら、「お願いします」とドアを開けたあたしは、両足を外に出してから、ハッとして後ろに振り返った。



「そうだ。トワさん」


「ん?」


「お姉ちゃん呼んでこようか?」


「え?」


「折角来たんだし、顔だけでも見て帰ればいいんじゃないかなと思って」


「いや、いいよ。やめとく」


「いいの? 少しくらいなら話す時間あるんじゃないの?」


心実ここみの顔見たら仕事行きたくなくなるから」


「そう?」


「また明日の昼に電話するって言っといて」


「分かった」


「あっ、そうだ。藍子ちゃん」


「うん?」


「店でメロン食べた事は、翡翠には内緒ね」


「はーい」


 返事をしながら車を下りて運転席を覗き込むと、トワさんはそれを分かってたかのようにこっちを見てて。



「またね」


 そう言って笑顔で手を振ってくれるから、あたしも小さく手を振り返して助手席のドアを閉めた。



 門扉を開けて中に入り、玄関ドアに鍵を差し込むと、ようやくトワさんの車が発進する。



 走り出した車のエンジンの音を背中で聞きながら、玄関のドアを開けると「ただいま」を言うよりも先に、甥っ子のたくちゃんがリビングからひょっこりと顔を出した。



「おかえり」


「琢ちゃん、ただい――ん?」


 リビングのドアから体半分だけ出してる琢ちゃんは、あたしに向かって口をパクパクさせてて。



「え? 何?」


 何か伝えようとしてるんだって事は分かるんだけど、何を言ってるのか全然分からない。



 そしてそれが「ヤバい」と何度も繰り返してるんだと分かった時にはもう手遅れで。



「藍子! あんたこんな時間までどこほっつき歩いてんの!」


 琢ちゃんの後ろから、お姉ちゃんが鬼の形相でリビングから出てきた。



「ど、どこってお兄ちゃんのお店に――って、昨日行くって言ったよね?」


「スーツ持ってくだけで何でこんなに遅くなんのよ! 夕方行くって言ってたでしょ!」


「そ、それは色々と事情が……」


「はあ!?」


「事情が……」


「言い訳する気!?」


「……ごめんなさい」


「あと五分遅かったら警察に連絡してたよ!」


「な、何で警察!?」


「あんたが電話に出ないからでしょ!」


「電話?」


「何回スマホに電話したと思ってんの!?」


「えっ、嘘!? 鳴ってな――あっ! マナーモードになってた!」


「そんな何の役にも立たないスマホなんか解約しな! お兄ちゃんに言ってすぐ解約してもらうわ! スマホに出ないのって本当腹が立つ!」


「か、解約はやだ……」


「じゃあ出なさいよ! ちゃんと電話に出なさいよ!」


「以後気を付けます……」


「それで!?」


「え?」


「お兄ちゃんに送ってもらったの!?」


「ううん。トワさんが送ってくれた」


惣一郎そういちろうが?」


 鬼の形相を解いたお姉ちゃんは、チラリとあたしの後ろにある玄関のドアに目を向ける。



 だから。



「トワさん、お姉ちゃんの顔見たら仕事に戻るの嫌になるからって帰っちゃった」


 一応ありのままを伝えると、お姉ちゃんは「ふんっ」と荒い鼻息で返事をした。



「あと、明日のお昼に電話するって。お姉ちゃんに言っといてって言われた」


「あっ、そ」


「会いたかった?」


「は?」


「トワさんに会いたかった?」


「別に」


「寂しくない?」


「別に寂しくないし、会いたくもないわよ。一昨日会ったばっかなんだから」


「毎日会いたくないの?」


「毎日なんてうざったいでしょ」


「そんなもん?」


「そんなもんよ」


「お姉ちゃんってそういうタイプだっけ?」


「タイプなんか知らないわよ。もういいから、ご飯の前に琢とお風呂に入っちゃいな」


「はーい」


 あたしがそう返事をすると、一部始終を聞いてた琢ちゃんも「へーい」と気のない返事をしてさっさとお風呂場に向かう。



 その琢ちゃんを追い掛ける為に急いで靴を脱いで、リビングに入ろうとしてたお姉ちゃんに「ごめんなさい」と声を掛けると、また「ふんっ」と荒い鼻息で返事をされた。



 お姉ちゃんがリビングに戻るのを見届けてからお風呂場に行くと既に琢ちゃんは素っ裸で、



「オレ、来年小学校だし、ひとりで風呂入れるのに」


 なんて、お姉ちゃんに似た端整な顔にある唇を尖らせて言ってくる。



 そんな事で拗ねてる感じが可愛くて、思わず顔がほこんだ。



「そっかあ。琢ちゃんももう来年は小学生かあ」


「おう」


「大きくなったよねえ」


「オレ、幼稚園の中で二番目に背が大きいんだ。――先に風呂入ってるな」


 お兄ちゃんみたいな口調でそう言った琢ちゃんが、まだ制服を脱ぎ始めたばかりのあたしを置いてさっさと浴室に入っていくから、あたしは急いで支度をしてあとを追った。



 浴室に入ると、琢ちゃんは浴槽のお湯に浸かってて、



「琢ちゃん、今日は頭洗う日だよ」


 そう声を掛けるとあからさまに「ゲッ」って表情を作る。



 その上で。



「昨日洗った」


 すぐバレる意味のない嘘を吐く。



「琢ちゃん、それは毎日一緒に入ってるあたしに通じる嘘じゃないよ?」


「嘘じゃねえし。洗ったし」


「嘘だね。洗ってないね」


「藍子が覚えてないだけだ」


「ちゃんと覚えてるもんね」


「藍子が見てない時に洗った」


「ずっと見てたけど洗ってないね」


「何だよ、藍子。意地悪言うな」


 三年も一緒に暮らしてる所為か、琢ちゃんの口調は時々お兄ちゃんを思わせる。



 たまに仕草が似てる時もあったりするから、一緒に住んでるって事の影響力に驚かされる。



 ただ、顔がお姉ちゃんで仕草がお兄ちゃんっていうのは、あたしからしてみれば可笑しくって仕方ない。



「何笑ってんの?」


「琢ちゃんって、お姉ちゃんに似てるなって思って」


「そりゃ似てるだろ。親子なんだから」


「うん。そうだけど、すっごく似てるから」


「男は母親に似て、女は父親に似るんだって園長先生が言ってた」


「でもお兄ちゃんはお父さんに似てるよ?」


「お父さんって祖父じいちゃん?」


「うん。琢ちゃんのお祖父ちゃん」


「オレ、写真でしか見た事ないからあんま分かんねえ」


「琢ちゃん生まれた時はもういなかったもんね」


「翡翠君、そんなに祖父ちゃんに似てる?」


「うん。お祖父ちゃんに似たからあんなに美形なんだよ」


「んじゃ、母ちゃんも祖父ちゃん似? オレの母ちゃんは『べっぴん』ってやつだって、隣のおじさんが言ってた」


「うん。そうだよ。お姉ちゃんもお祖父ちゃんに似てる」


「藍子は祖父ちゃんに似なかったんだな」


「琢ちゃん、それはどういう意味なんだろうか」


「可哀想にな。祖母ばあちゃん似なんだな」


「可哀想にって何がだろうか」


「気にすんな! 女は顔より『あいきょう』だって翡翠君が言ってた!」


「……へえ」


「『あいきょう』って何か知らないけど」


「だろうね」


「なあ、藍子。逆上のぼせてきたからもう出ていい?」


「え? 琢ちゃんまだ体も頭も洗ってないよ?」


「うん。今日はいいや」


「何ひとつよくないよ」


「今日は疲れてるから」


「意味が分からないよ」


「昼間、公園で遊んだからすっげえ疲れてんだ」


「尚更洗わなきゃいけないよ」


「だからもう出ていい?」


「ねえ琢ちゃん、あたしの話聞いてくれてる?」


 それから五分以上琢ちゃんと揉めた末、あたしが洗ってあげるという事で何とか事が収まったお風呂は、結局全部が終わるまでに、入ってから三十分も掛かってしまった。



 お風呂から出ると食卓に、温かい夕食が用意されてた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る