環境からの悟り
歓楽街の中でも独特の雰囲気を放つ、飲み屋が密集するエリア。
そのエリアでも一等地って呼ばれてる場所に建つテナントビルは、店舗として貸し出されてるひとつひとつの店の面積がバカみたいに狭いのに呆れるほど家賃が高い。
そんなビルの三階。
貸し店舗の中のひとつ。
ドアに「準備中」の札が掛かってるボーイズバー【Crown】は、L字型のカウンター席があるだけの長方形の狭い店。
奥行きの長いカウンターのちょうど真上にはワイングラスを逆さまにして吊るグラスラックがいくつもあって、カウンターの内側の壁は一面棚になってる。
棚にはお酒が所狭しと並べられてて、お酒が飲めないあたしには全く分からないけど、カクテル用の洋酒が多いらしい。
その店のカウンターの中で、あたしはスツールに座って、出してもらったオレンジジュースを飲んでる。
視線の先には、今のところあたしの他に唯一店内にいる、この店のマネージャーのトワさんがいる。
「そんな事があったから、藍子ちゃんが来るの遅かったんだね」
トワさんはファミレスで起こった出来事の一部始終を話したあたしにそう言って、磨き終わったばかりのグラスをカウンターに置いた。
カウンターに並べられてるグラスを見ただけでトワさんの几帳面さが分かる。
磨かれたグラスはほんの少しの曇りもなくて、どれもキラキラ光ってる。
「うん。帰るに帰れなくて」
トワさんと知り合ってから七年くらい経つ。
だから、性別は違うし十一歳も年が離れてるけど友達みたいな感覚で、全く気を遣わなくて済むから一緒にいて楽。
ただトワさんがあたしに対して同じような気持ちを持ってるかは疑わしい。
あたしとトワさんの関係は、一言で説明が出来ないくらいには複雑で、トワさんにとってあたしは多少なり気を遣わなきゃいけない相手だったりする。
でも。
「それで、結局明日はどうなったの?」
温厚な話し方は元々のものだから、特別あたしにだけって訳じゃない。
「どうって?」
「勉強見てやるって言われて、どうなったのかなって思って」
「見てもらう事になった」
「何でまた」
「んー、向こうがそうしたいのかなって思ったから」
「そうしたい?」
「うん。多分だけど、井上先生は愚痴を聞かれた事、すっごく気にしてるんだと思うのね? 言われたらどうしようって焦ってたりもしてると思うんだ」
「まあ、そうだろうね。話を聞いてる限りじゃ偉そうな態度も強がりだろうし」
「うん。だからあたしに恩を売りたいんじゃないかなって思って。口止め料って言い方でもいいんだけど」
「勉強を教えるっていう恩?」
「そう。愚痴ってるのを聞かれた訳だから何だかんだ言ってもやっぱり後ろめたいんだろうし。それに恩を売った事であたしが言う言わないって事よりも、口止めの為にこれだけやったって自分が思いたいんじゃないかなって。結局あたしの為ってより自分の為にそうしたいんだろうなって」
「なるほどね」
「だからしつこく言ってくるんだろうなって思ったから、場所と時間を教えてきた。来るかどうかは分かんないけど」
「来ると思うよ」
「そう?」
「相当焦ってるだろうしね」
「そっか」
「でも藍子ちゃんはそれでいいの?」
「あたし?」
「強がりであれ、元々の性格であれ、そんな偉そうな奴と一緒にいるの苦痛でしょ」
心配そうな表情で聞いたトワさんは、磨き終わったグラスを順番に片付けていく。
その動きを見ながら首を傾げたあたしは、
「それは平気っていうか、実はあたしも井上先生とちょっと一緒にいたかったりするんだ」
あの時感じた率直な気持ちを口に出してみた。
「へ?」
「あっ、変な意味じゃなくてね? 何て言うかその……井上先生が大学の友達に愚痴を言ってるの聞いてた時、何かショックだったのね?」
「そりゃそうだと思うよ。仮にも『先生』がバカだのブスだの言ってるんだから」
「あっ、違う。それは何とも思ってない」
「ええ!?」
「だってそんなものだって思ってるから」
「そんなものって……」
「だってそうでしょ? 表向きはいい顔してても、裏では散々悪口言ったり、罵ったり。それって別におかしい事じゃないっていうか、普通の事でしょ?」
「藍子ちゃんそれ、完璧に
「お兄ちゃんとかトワさんたちの所為も何も、実際そういうものでしょ?」
「確かに違うとは言えないけど、それは藍子ちゃんの年齢で悟る事じゃないっていうか、その年齢はまだ男に夢を見てた方が――って無理か。育った環境が悪かったね……」
「育った環境が悪いって思った事ないけど……」
「いやいや、そういう観念に関して完全にスレちゃってる辺り、俺らが藍子ちゃんの家に出入りしてたのが原因だよ」
「でも楽しかったよ? 毎朝いっぱい人がいて」
「店終わりの酒臭いホストばっかだったのに?」
「うん。みんな朝から遊んでくれたし、酔っ払って妙にテンション高くて、訳分かんない事言ってるの聞いてて面白かったし」
「小学生がそんなの見て面白いって思ってる時点で問題あると思うけど……」
「でもあたしが中学生になったくらいからトワさん以外はあんまり来なくなったね」
「それはまあ、思春期の藍子ちゃんに気を遣ったんだけど、どうも手遅れだったみたいだね。人生の大半を経験したくらいにスレちゃって……」
「そんなにスレてないよ」
「いや、本当に責任感じるよ。仕事終わりの俺らが客の愚痴言ってるのを散々聞かせてきたんだもんな……」
「まあ、ホストクラブには何があっても行かないって思ったのは確か」
「うん。行かない方がいい」
「あと『金の切れ目が縁の切れ目』っていう
「…………」
「お兄ちゃんは一時期、お客の顔が全部諭吉に見えるって言ってたよ?」
「あいつ何て事を……」
「だからね? お兄ちゃんとかトワさんたちの所為っていうよりそのお陰で、今日の井上先生が言ってた事も何とも思わなかった。っていうか、まだ可愛い方だなくらいに思った」
「じゃあ、何がショックだった?」
「それが分かんないの。分かんないからもうちょっと井上先生と一緒にいたいなって思ったんだ。一緒にいれば分かるかもしれないから」
「んー、キャラが違ったとか?」
「キャラ?」
「学校じゃ優しい先生なのにそんな事言ってたからそのギャップにショックを受けたとか。ほら、藍子ちゃんは確かに俺らの愚痴を散々聞いてたけど、実際店での俺らって見た事なかったから、現実問題ギャップに耐え切れなかったんじゃない?」
「ううん。別にギャップはなかったっていうか、そりゃ井上先生も学校では偉そうな話し方はしないけど、愚痴を言わないってタイプでもない」
「ならあれだ。その先生が格好良くてちょっとお気に入りだったのに、そういう事言ってたからショックだったとか」
「んー、それもないかなあ。井上先生も格好いい方だと思うけど、お兄ちゃんとかトワさんたちの方が全然格好良いし」
「それはどうも」
「あたし、お兄ちゃんたちの
「ああ、そこは『所為』なんだ?」
「うん。目が肥えちゃってとっても困ってる」
「俺らはさておき、翡翠が兄貴じゃなあ。あれ以上はそう滅多にお目に掛かれないだろうし」
「違うよ。お兄ちゃんだけじゃないよ。色んなタイプの『格好良い』を見慣れちゃってるから、幅広く対応しちゃって困ってるんだよ」
「あー、ホスト軍団に囲まれて育つとそうなるのかもなあ」
「臨機応変すぎて困る」
「藍子ちゃんも大変だね。翡翠がホストなんてしちゃったばっかりに」
「ううん。そこは何とも思ってない。思ってないっていうか感謝してるくらい。お兄ちゃん、それまでちゃらんぽらんな事してたのに、お父さんが死んですぐ働いてくれて、
「あいつの場合、マジで血反吐吐いてたからなあ」
「うん。お兄ちゃん死んじゃうんじゃないかって何度か思った」
「親父さんが亡くなって十年か」
「うん」
「お母さんは? 藍子ちゃん連絡取ってる?」
「うん。たまにだけど。お母さん、あっちの家族と上手くやってるって。だから邪魔しちゃいけないと思ってあんまり連絡してない」
「気にする事ないよ。いくら新しい家族がいるって言っても、藍子ちゃんのお母さんには変わりないんだから」
「分かってるけどやっぱり……ね。――って、お母さんと連絡取ってる事お兄ちゃんに言わないでね? お兄ちゃん、あんまりいい顔しないから」
「ああ、そうか。分かった」
「それにしてもお兄ちゃん遅いね。何時に来るの?」
「あれ? 今日、約束してる?」
「してないけど、来るでしょ?」
「いや、支店に顔出すって言ってたから来ないかも?」
「支店って【Kingdom】?」
「最近あっちの売上悪くてね。様子見に行くって」
「ええ!? なら何でこっちにスーツ持って来いって言ったんだろう? 自分で行けばいいものをあたしにクリーニング取りに行かせたんだよ?」
「じゃあ、こっちも来るのかな?」
「っていうか、お兄ちゃんあっちにいる事多くない? 折角ホスト上がってこのお店持ったのにあっち行ってたら意味ないと思う。あっち行ったら普通にホストとして接客してるんでしょ?」
「藍子ちゃん、翡翠がホストするの嫌なの?」
「凄くお酒飲むから嫌。また入院する事になったら迷惑だもん」
「迷惑?」
「お兄ちゃん、入院したらうるさいんだもん。前に入院した時なんて、あれ持って来い、これ持って来いって数時間おきに連絡してきて、あたしをパシリに使うんだよ?」
「そういえばそうだったね。藍子ちゃんしょっちゅう病室にいたもんなあ」
「そうだよ。あたしが逆らえないのをいい事に好き放題言うんだよ」
「逆らえない?」
「養ってもらってるからね。お小遣い貰えなくなっちゃうし」
「翡翠、そんな事する?」
「するよ! 前に頼まれた事やり忘れてたら一ヶ月お小遣いくれなかった」
「酷いな」
「でしょ? だから入院されたら迷惑。まあ今もパシリにされてるけど、でも入院中よりはマシ。あんまりあっちに行かないで欲しい」
「基本的にはこっちにいるよ? あっちはたまにだね」
「そもそも何であっちが支店でこっちが本店なの? あっちの方が全然大きいのに。あっちが本店でいいんじゃないの?」
「あっちは預かり物みたいなもんだし」
「預かりって、前の店長逃げちゃって、路頭に迷った後輩が可哀想だからってそのままお兄ちゃんが引き継いだんだから、お兄ちゃんのお店じゃない?」
「翡翠はそうは思ってないよ。店長が帰ってきたら返すつもりだろうし」
「あっちのお店、ようやく軌道に乗り始めたのお兄ちゃんのお陰なのに?」
「うん」
「じゃあ、やるだけ損じゃない?」
「損ではないよ。翡翠にはこの店があるから」
「労力として損だと思う」
「ちゃっかり向こうの客をこっちに引っ張ってきてるから労力的にも損してないよ」
「へえ」
「それにね、藍子ちゃん。人件費とか家賃とか酒代諸々を抜いて計算すると、うちの店の方が売り上げいいんだよ」
「あっ、プライドだ。現役ホストに負けないぞってプライド見せられた」
「当然」
「トワさんってばホスト上がってもプライド高いんだあ」
「男の半分はプライドで出来ています」
「残り半分は?」
「何だろうね」
「お兄ちゃんなら『エロ』って言いそう」
「翡翠なんかの妹である藍子ちゃんの将来がとっても心配になった……」
眉尻を下げて情けない笑いを作ったトワさんは、何気ない感じで腕時計を見て「ああ」と呟く。
倣うようにあたしもお店の時計に目をやると、もう二十時五分前になっていた。
「もうこんな時間か。だから藍子ちゃん、翡翠がいつ来るか気にしてたんだね」
「うん。お兄ちゃん来たら車で送ってもらおうと思って」
「俺が送ってくよ」
「いいの?」
「もうすぐ早番のスタッフ来るからそれまで待ってくれる?」
「うん」
「家に電話しなくて平気? 心配してるんじゃない?」
「お姉ちゃん、今日あたしがお兄ちゃんの店に来るの知ってるから心配はしてないと思う」
「そっか」
「ねえ、トワさん」
「うん?」
「そこにあるメロン食べたい」
カウンターの上に置いてある、買ってきたばかりのメロンを指差したあたしに、トワさんは「高いよ?」と笑ってそれを手に取った。
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