第1話:狂乱の序章

蒲田駅前は、いつものように活気に溢れていた。佐藤悠介は、駅近くの牛丼屋で黙々とバイトをこなしていた。厨房の奥で立ち働きながら、ふと時計を見る。午後5時を少し過ぎたところだ。


「佐藤、盛り付け手伝ってくれ!」


店長の声が飛ぶ。悠介は小さく「はい」と返事をして、牛丼の具材を手早くよそう。客席は程よく埋まっていたが、混みすぎず、空きすぎず。店内には、通勤帰りのサラリーマンや学生が静かに食事をしている。


テレビの音がぼんやりと耳に届く。ニュースキャスターが淡々と海外のニュースを伝えている。


「海外で蔓延している新型ウイルスについて、専門家はパンデミックの可能性を指摘していますが、今のところ日本での感染確認はありません」


悠介はそのニュースを聞きながらも、特に気にする様子はなかった。ニュースなんていつもどこか他人事だ。店の外をちらりと見ると、行き交う人々はまだ慌ただしく、東京の日常が続いている。


「あ、もうこんな時間か」


悠介は再び時計を確認すると、バイトが終わる時間が近いことを思い出した。今日は世田谷に住む彼女、三浦咲良に会う約束をしていた。


牛丼を最後にもう一杯盛りつけ、カウンターに運ぶと、店長が悠介に声をかけた。


「お疲れ、今日はもう上がっていいぞ。交代要員がまだ来てないからもっと居てくれてもいいけどな~」


店長が悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「え~、橋本さんが遅刻とか珍しいっすね…でも用事があるんで、お疲れ様でした~!」


悠介は店長に軽く会釈しながら、彼の引き留めをスルーしてエプロンを外してロッカーへと向かった。店の裏口を出て、ひんやりとした夜風を感じると、少し気持ちが軽くなる。スマホを取り出し、彼女にメッセージを送った。


「今バイト終わった!そっちはどう?」


しかし、既読はつかない。いつもならすぐに返事が来るはずなのに、少し違和感を覚えた。


「まあ…昼寝でもしてんのかな?」


スマホをポケットにしまい、悠介は駅へと足を向けた。



駅前に着いた悠介は、電車の時間を確認しながら階段を上がる。ちょうど電車が来る時間だ。だが、その時、駅前で何かが起こっているような気配がした。遠くで誰かが叫んでいるのが聞こえる。


「イテ!なんだコノヤロー!」


悠介は一瞬、立ち止まってその方向を見た。サラリーマン同士がもみ合ってる姿が遠目に見えた。ただ、東京の駅前では何かしらの騒動が起こることは珍しくない。酔っ払いや通行人同士のトラブルだろうと、悠介は気にも留めず改札を通り、ホームへと向かった。



電車に乗り込むと、車内は普段よりも人が少ないように感じた。座席には数人しか座っておらず、みんなスマホを見つめたり、ぼんやりと外を眺めている。悠介はふと窓の外を見た。

車窓から見える東京の風景は、いつもと同じはずだった。しかし、今日はどこか違う。遠くに立ち昇る煙が、空を黒く染めていた。それが火事なのか、別の何かか、悠介にはわからなかった。


「…何か、変だな」


徐々に不安が胸の奥に湧き上がる。それでも、彼はスマホを再び手に取り、彼女である咲良にメッセージを送った。


「電車乗った!もうすぐそっちに着くよ」


だが、またもや返信はない。いつもなら、すぐに「おかえり」とか「気をつけてね」と返してくるのに。


山手線で渋谷に着き、乗り換えのため電車を降りると、入れ替わりで大勢の客が乗り込んで来た。

すれ違う高校生が「エグい、エグい」と連呼していた。一人の男の子は顔をティッシュで押さえているが、そのティッシュが血に染まっていた。

喧嘩でもしたんだろう?


「(まあ、渋谷は治安悪いからな)」


そう考えながらも悠介は好奇心からスマホでSNSのアプリを開いてみる。

トレンドには「渋谷で乱闘」、「流血騒ぎ」、「ホテル火災」という文字が踊っていた。


「(さすが東京、治安悪いな…)」


地方出身特有のステレオタイプ「The東京」の空気を肌で感じながら、悠介は田園都市線のホームに向かった。



何度か電車を乗り継ぎ世田谷駅に到着した。悠介は改札を出て、彼女のアパートへと向かう。夕暮れの街は少し静かすぎるような気がした。普段なら、もっと人の気配があるはずなのに、今日は通りも閑散としている。


彼女のアパートに近づくにつれ、そこかしこで騒がしい声が聞こえてきた。遠くでサイレンが鳴り響いているのも、気になった。何が起きているのか、まるで見当がつかない。


「早く咲良の家に行くか…」


悠介は少しペースを上げ、咲良のアパートの前にたどり着いた。彼女の部屋は101号室。建物の前で立ち止まり、インターフォンを押したが、反応はない。


「咲良、いる?」


何度か押しても応答がなく、悠介は不安を感じ始めた。そこで、ポケットから合鍵を取り出し、静かにドアを開けた。


「咲良?」


部屋の中に入ると、静寂が彼を包んだ。リビングには人の気配はない。だが、こじんまりとした1LDKの部屋のキッチンには明らかに料理途中と思われるニンジンや、肉のパックが放置されている。几帳面な彼女がこの状態で出かけることは考えられない。テーブルにはスマホが放置されており、何か部屋自体に異様な雰囲気が感じられる様だった。


「どこだよ…」


悠介はリビングを一通り見回し、次に寝室へと向かった。寝室のドアを開けると、窓が割れていた。風がカーテンを揺らし、冷たい夜風が入り込んでいる。


「おい、咲良…!?」


その時、背後からかすかな声が聞こえた。


「悠介……」


声の方に振り返ると、クローゼットの扉が少しだけ開き、そこから彼女が覗いていた。咲良は怯えた表情で、小さな声で言った。


「悠介……後ろ……!」


「え?」


その瞬間、悠介の背後から強い力で押さえ込まれた。何が起きたのかわからないまま、床に倒れ込む。なんとか後ろ側に顔を向けると背後には血まみれの男が、大口を開けて悠介の肩口に噛みつこうとしていた。


「うわ!なんだこいつ!?離せ!」


悠介は何とか男を引きはがそうとするが、男は力強く、血まみれの顔で悠介に襲いかかろうとする。必死に抵抗してようやく振りほどくと、悠介は部屋の片隅に立てかけてあったクリケットのバットを見つけた。


「くそっ……!」


悠介はバットを手に取り、男の頭を思い切りフルスイングした。鈍い音が響き、男は一度倒れ込む。しかし、男はすぐに再び立ち上がってきた。


「なんなんだこいつ……!」


悠介は咲良の手を強く握り、「警察に行こう!」と叫んだ。咲良は靴を履くのに手間取っている。


「早く!」


悠介は咲良を急かしつつ、後ろから迫って来る頭の凹んだ男にクリケットバットを投げつけた。

なんとか靴を履いた咲良と悠介は部屋を飛び出し、外に向かって走り出した。



外に飛び出した瞬間、目に映る光景は信じられないほど異常だった。道路には無数の倒れた人々、そしてその上に覆いかぶさるようにして何かをむさぼる者たちの姿があった。彼らは、生きている人間に襲いかかり、狂気じみた動きで体を引き裂いているようだった。まるで悪夢の中に迷い込んだかのような光景に、悠介は言葉を失い、ただ咲良の手を強く握りしめることしかできなかった。


サイレンの音が絶え間なく響き渡り、至る所から叫び声が聞こえてくる。混乱は極限に達しており、横転した車や破壊された店が街全体に広がっている。まるで戦場のような光景が目の前に広がり、悠介は次第に恐怖で思考が麻痺していくのを感じた。


「なんだこれ……?」


悠介は震える声で呟いたが、パニック状態の彼の脳ではうまく処理しきれず茫然と様子を眺めていた。人々を襲っている者たちはゆっくりとした動きだが、確実にこちらに向かってきている。状況は急速に悪化しているように見えた。


「悠介、どうしよう……!?」


咲良が怯えた声で訴えかける。彼女の顔は恐怖に染まり、足元がふらついている。


「落ち着け、咲良!逃げるしかない……!」


悠介は必死に周囲を見回したが、どこに逃げても同じような混乱が広がっていた。進むべき方向が定まらないまま、ただ一つのことが頭に浮かんだ。人の多い場所は危険だ。パニックに陥った人々や、何かに襲われている光景がそこら中に広がっている。


「……人が少ない方に行こう!」


悠介は咲良の手を引き、反射的に人が少なそうな方向へ走り出した。人混みを避け、狭い路地裏を駆け抜ける。時折振り返ると、ゆっくりとした動きでこちらに近づいてくる者たちの気配があった。


「どこに逃げればいい!?」


頭の中は混乱し、どこへ向かえば安全なのかもわからない。ただ、とにかく動き続けなければ命はない。咲良の息遣いが次第に荒くなり、二人とも限界が近づいていた。足元はガタガタと震え、心臓が爆発しそうなほど鼓動が激しい。


その時だった。路肩に倒れている自転車が目に入った。


「自転車だ……!」


悠介はすぐさまその自転車に飛びつき、後ろの咲良に声をかけた。


「咲良、これに乗れ!逃げるぞ!」


咲良は息を切らしながらも頷き、二人で自転車に飛び乗った。ペダルを全力で漕ぎ、街を駆け抜ける。途中助けを求める人々と大勢すれ違った。罪悪感を抱きつつ彼らはその叫びを無視して必死に惨状と化した街を進んだ。



自転車を漕ぎながら、悠介は思考を整理しようとしていた。このまま街の中心に留まっていても、混乱が広がるばかりで危険だ。自分たちが生き延びるためには、もっと人が少ない場所に逃げ込むしかない。


「……とにかく、人の少ない方に向かおう!」


悠介はふと思い立った。山の方なら、人が少なくて、今のような混乱も少しは避けられるかもしれないという漠然とした考えだった。とにかく、街の中心から遠ざかりたい。そう決めた悠介は、さらにペダルを強く漕ぎ始めた。


咲良も無言で悠介の背中にしがみついている。二人は必死に自転車を漕ぎ続けた。背後に感じる気配が徐々に遠ざかっていくのを感じながら、彼らは少しずつ混乱から離れていった。


----- 人物メモ -----


佐藤悠介(さとうゆうすけ)


年齢: 22歳

職業: 大学生・牛丼屋のアルバイトスタッフ

性格: 落ち着いた性格で、感情的になることは少ない。責任感が強く、他人に頼られることが多いが、やや優柔不断な面もある。自分の感情を表に出すのが苦手だが、親しい人には思いやりを見せる。

背景: 大学では経済学を専攻。牛丼屋でのバイトは学費を稼ぐために始めたが、今では職場の仲間とも打ち解けており、特に店長の田中圭一とは信頼関係を築いている。彼女の咲良とは大学のサークルで知り合い、付き合って2年目になる。


三浦咲良(みうらさくら)


年齢: 21歳

職業: 大学生

性格: 明るく活発で、行動力のある性格。社交的で誰とでもすぐに打ち解ける一方、感受性が強く、感情の起伏が激しいこともある。何事にも前向きで、悠介をよく引っ張る存在。

背景: 東京都内の大学に通い、文学を学んでいる。自由奔放な性格だが、芯が強く、目標に向かって努力を惜しまないタイプ。悠介とは大学のサークル活動を通じて知り合い、2年前から交際を続けている。都内で一人暮らしをしており、悠介とは時々一緒に過ごしている。

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