第42話 月明かりのキスを君に

 夜の公園。

 俺は親戚に電話を掛け、長年の怒りをぶちまけた。


 通話を終えたスマホをポケットにしまい、哀川さんに向き直る。


「今、親戚に電話したのは……強くなりたかったから」


「強く……?」

「うん」


 まだ暴れそうな胃をお腹の上から軽く叩き、俺は苦笑する。


「哀川さんは何年も前に行き別れたお父さんに、これから会うことになる。もちろん無理強いはしないし、哀川さんがいきたいならだけど、でももしそうするなら……俺だって、いつまでも親戚から逃げてはいられない」


「あ……」


 哀川さんの表情に驚きと、そして理解が灯った。

 へへっ、と俺は笑ってみせる。


「すっごく気持ち良かったよ。電話越しだから引っぱたけたわけじゃないけど、でも長年我慢してた分、めちゃくちゃスカッとした。だから結構おススメか……もぉっ!?」


 言葉の途中で胃の中身がまさかのリバースした。

 とっさに近くのゴミ箱に駆け寄り、胃の中身をぶちまける。


「ハルキ君っ!?」


 哀川さんが慌てて駆け寄り、背中をさすってくれた。


 ……うわぁ、格好悪いなぁ、俺。


 奏太そうたさんのとこで食べた雑炊も全部無駄にしちゃった。申し訳ない……。


 ゴホゴホッ、と咳きこみ、体を起こす。

 全部吐き出してどうにか落ち着いた。


 まあ、叔母さん相手に面と向かって文句を言ったんだ。吐くぐらいは当然だろう。むしろそれだけ頑張ったってことだから、俺にとっては勲章だ。


 ただ、哀川さんの前でリバースしたのは、やっぱり格好悪くてちょっと情けない。


 バツの悪さを誤魔化すため、俺は口をぬぐいながら言う。


「旅費のことなら大丈夫。俺の部屋にヒヨコの貯金箱があったでしょ? あれに結構な額が入ってるから、北海道だって高校生2人分ぐらいはなんとかなるよ」


「なんとかなるよ、って……待って、ハルキ君」


 背中をさすってくれていた手がわずかに震えた。


 顔を見ると、哀川さんは辛そうに唇を噛み締めている。


「哀川さん?」

「やり過ぎよ……」


「え? なにが?」

「なにがって……今のぜんぶ!」


 まるで俺に言い聞かせるように、哀川さんに腕を掴まれた。


「こんなふうに体がおかしくなるぐらいまで親戚の人に立ち向かって……っ。お金だって何か大切なことのために貯めてたんでしょ……!? どう考えたって、やり過ぎよ。気持ちは嬉しい。本当に嬉しいの。でも……っ」


 心底辛そうに、哀川さんは唇を震わせる。


「また君の歪みが出てる……!」


 あー……。

 なるほど。


 そう思われても仕方ないのかもしれない。


 俺は以前に哀川さんから言われている。


 もう誰も助けようとしないで、と。

 君が助けなきゃいけないのは、君自身なんだから、と。


 無理をしてまで誰かを助けようとする姿は、哀川さんには歪みに見えるのだろう。


 たぶん、今まではそうだった。


 でも今は違う。

 違うと断言できる。


 ただ、と俺は考える。


 この変化をどうすれば哀川さんに伝えられるだろう。


「…………」


 考えていると、ふと夜空が目に入った。


 夜のキャンバスのなかで静かに光を放っているのは、美しい月。


 街灯のスポットライトとは違う、柔らかな光が胸を満たしてくれるような気がした。


 ……ああ、今夜は月がきれいだなぁ。


 穏やかな気持ちでそう思っていると、自然に考えがまとまってきた。


 うん、そうだな。

 今の俺のことを伝えるには、この方法が一番だな。


 ちょっと恥ずかしいけど、ここは勇気を出して……。


「哀川さん」


 名前を呼び、優しく腕を引っ張って、彼女を引き寄せた。


「え?」


 不意打ちの動きに哀川さんは反応できない。

 その隙をついて、俺は彼女のおでこに――キスをした。


「へ? ……ふえっ!?」


 数秒の間を置き、哀川さんの顔が一瞬で真っ赤になった。


 耳まで赤くなり、おでこを押さえて、すごい速さで後ずさる。


「な、な、なななな、なにっ!? なにが、なにっ!?」

「あははは」


 動揺っぷりが可愛くて、つい笑ってしまった。


「な、なに笑ってるの!? こっちは真面目な話をしてるのに……!」


 当然ながら怒られた。

 うん、まあそうだよね。


 で、哀川さんのお怒りは収まらない。


「な、なんなの……!? あたしは本気で心配してるのに、いきなり……キ、キスするとか! ハルキ君、どういう趣味なの!? 変態なの!?」


「やー、変態ではないと思うよ? あと肩を噛む人には言われたくないし」


「それとこれとは話が違うし!」

「や、あんまり違くはなくない?」


 変態っていうなら噛んじゃう人も相当だと思う。


 それに――。


「さっきの俺の行動は歪みじゃないよ。俺が親戚とケリをつけたのは、俺のためだ。俺が、俺のために、哀川さんを支える強さが欲しかったからだよ」


 哀川さんが後ずさった分、距離を詰めていく。


「他の誰かのためだったら、ここまで出来ない。俺は――」


 目の前まできて、力いっぱい抱き締めた。


「――君のために強くなりたいんだ」

「……っ!」


 艶やかな黒髪からリンスの香りがした。

 哀川さんの体はあの夜と同じように華奢で、細くて、今にも折れてしまいそうだ。


 だから強くなりたい。

 ちゃんと支えていけるように。


「哀川さんのことを想ったら、親戚なんてもう怖くもなんともなかった。ちょっと吐くぐらい、なんでもないよ。お金だってまた貯めればいい。大事なのは、これから先も哀川さんが笑って生きていけるかどうかだ」


 真っ直ぐに彼女の目を見る。


「君の笑顔のためなら、俺は――俺のための俺になれる。これは自己犠牲なんかじゃない」


 優しい月明かりの下、柔らかく笑って言葉を紡ぐ。


「なんだってするよ。君が笑ってくれるなら」


 その瞬間。

 彼女の瞳が大きく揺れた。

 

 薄紅色の唇が震え、朝露のようにきれいな涙がこぼれていく。


「どうして……」


 細い手がぎゅっと俺のTシャツを掴んだ。


「どうして、そこまでしてくれるの……っ」


 その答えはもう態度で示したつもりだ。

 だからイタズラっぽく笑ってみせる。


「もう一回、キスしようか?」

「~~~~っ」


 真っ赤な顔で哀川さんはぶんぶんと首を振る。

 もう一度されたら恥ずかしさで死んじゃう、と言うように。


 涙をぬぐうこともせず、哀川さんが俺の胸におでこを押し当ててくる。そして、いっぱいっぱいの涙声で囁いてきた。


「……あたし、もうムリだから。ここまでされちゃったら、もうハルキ君無しじゃ生きていけないから……」


 ふいに哀川さんが顔を上げ、視界いっぱいに広がったのは、涙目で頬を染めた懇願顔。


「だからっ、責任取ってよね……っ」

「はい、取らせてもらいます」


 間髪をいれずに返事をした。

 そしてもう一度、抱き締める。


「俺だって、もう哀川さん無しじゃ生きていけないもん」

「……っ」


 一瞬、鼓動が高鳴ったかのように体を震わせ、哀川さんもぎゅっと抱き締め返してくれる。


「ハルキ君……」


 温かくて、柔らかくて、気持ちよくて、こうしているだけで嬉しさが込み上げてくる。


 小さな公園だから、この時間になるともう誰も通らない。

 聞こえるのは、そよ風の音と虫たちの鳴き声だけ。


 2人だけの世界のように感じた。


 出来れば、ずっとこうしていたい。

 だけど甘い空気はそう長くは続かなかった。


「ねえ、ハルキ君」


 空気が壊れるかもしれないけど、どうしてもツッコまずにはいられない、という感じの声だった。


「さっきキスしてくれたけど……その前、吐いてたわよね?」

「あ」


 今気づいた。

 というか、言われるまで気づかなかった。


 ちょ、え……ま、まさかのゲロチュー!?

 いくらなんでも大失敗すぎるぞ、俺……!


 ギギギ、と錆びた人形のように顔を向け、謝罪。


「す、すみません」

「まったく」


 一方、哀川さんはちょっと拗ねた風に見せつつも、赤面している。


「次は気をつけてよね?」

「え?」

「だ、だからっ」


 何度も言わせないで、という目で彼女は可愛らしく唇を尖らせる。


「気をつけてよね! つ、次は、、……!」

「あ、はい。気をつけます」


 ヤバい。

 ニヤニヤしてしまう!


 と思った時にはニヤついてしまっていて、哀川さんに頬っぺたをつねられた。でもぜんぜん痛くない。


「もー! なにニヤニヤしてるのよー!?」

「ご、ごめんってばー!」


 まったく、とまたお怒りになり、哀川さんはぽすっと俺の肩に寄りかかった。


 そして小さな声で囁く。


「……甘えていい?」

「なんなりと」


「……あたしときて。北海道まで」

「お任せ下さい」


「ありがと」


 子猫のように頬ずりし、彼女は嬉しそうに瞼を閉じる。


「……ハルキ君と一緒なら、あたしもきっと強くなれる」


 その声は静かに夜のなかに溶けていった――。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



次回更新:木曜日

次話タイトル『第43話 北への旅路(で、イチャイチャ)』

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