第40話 父親からの手紙
日にちにしたらそれほど経っていないはずなのに、すごく久しぶりな気がする。
夜の公園。
街灯がぽつんと立っていて、その下にベンチがある。
ゴミ箱の前を通ると紙くずがいくつか入っていて、草むらからは虫たちの鳴き声が静かに響いていた。
ご近所さんの部屋で雑炊を食べさせてもらった後、俺たちはこの公園にきた。
ここがすべての始まりだった。
「座る?」
「うん」
俺の問いに哀川さんは短く答えた。
ちなみに今日の哀川さんは学校にいっていないから、普通に私服だ。
薄手のパーカーに、足首辺りできゅっとしぼんだタイトなジーンズ。
俺に会うかどうか迷っていたせいか、露出は少ない。
「ごめんね?」
「うん?」
ベンチに座ると、哀川さんが謝ってきた。
首をかしげる俺に対し、パーカーの下のTシャツの首元をちょこんと摘まむ。
「ハルキ君、もっと胸とか足とか見たかったかな、って」
「大丈夫です。結構です。そんなことは微塵も思っておりません。自分、僧なので。ええ、
すごい早口で言ってしまった。
哀川さんの「ふーん?」というニヤニヤ笑いに心を抉られつつ、俺も隣に座る。
「それで」
ゴホンと咳払いをして、俺は水を向ける。
「何があったの?」
「ん……」
哀川さんは少しだけ言い淀んだ。
でももう話すと決めてくれていたんだろう。
ベンチとは逆側の街灯の方を見つめ、彼女は口を開く。
「……手紙がきたの」
「手紙?」
「そう」
パーカーのポケットに手を入れ、取り出されたのは一通の便箋。
「あたしの……父親から」
「父親?」
それはちょっと予想外だった。
てっきりお母さん絡みで何かあったのかと思っていたから。
いや家族のことだから間違いではないのかもしれない。
でもまさか父親だとは。
「確か哀川さんのお父さんって……」
それこそ初めてこの公園で話した時、聞いた記憶がある。
哀川さんは他人事のようにうなづいた。
「うん、あたしが子供の頃に女作って出ていったきり。正直、顔も……ううん、まあ顔ぐらいは覚えてるけど。でも今さら……」
便箋の封は開いていた。
もう手紙は読んだ後ということだろう。
普通なら聞くのを躊躇うところだ。でも俺と哀川さんはもうそんな遠慮をする仲じゃない……と思う。
だからストレートに尋ねた。
「なんて書いてあったの?」
「読む?」
自然な仕草で渡された。
俺が受け取って目を通し始めると、哀川さんは苦笑いで言葉を続けた。
「あたしの父親……結局、女と再婚したらしいの。で、娘が生まれて今は普通に家庭持ち。でも娘があの頃のあたしぐらいに育ってきて……やっと自分のしたことに気づいたんだって」
哀川さんの苦笑いが一層濃くなった。
「こんな小さな頃の
美雨とは哀川さんの下の名前だ。
実際、手紙には哀川さんが言ったのと同じ内容が書かれていた。あまり上手くはない字で、しかし何行にも渡って綴られている。
「笑っちゃうでしょ? あれからもう10年以上経ってるのよ? あたしはもう父親が知ってる頃の子供じゃない。なのに『好き嫌いはないか?』、『学校は楽しいか?』だって。時間が止まってるのよ。高校生のあたしなんて想像も出来ないんでしょうね」
哀川さんはベンチに座ったまま、片方の膝を抱えた。
それは、自分の心を守る時の彼女の癖。
「本当、嫌になっちゃう……」
額を膝に押し当てて、か細いつぶやきがこぼれる。
「今さら取って付けたような父親ヅラしたって遅いのよ……」
そうして街灯の下で照らされている姿は、まるであの日の再来のようだった。
「哀川さん……」
「ごめんね」
膝を抱える手は、肌が白くなるほど強く握られていた。
「ハルキ君にこんな話、聞かせたくなかったのに……。ごめんね、あたし……弱くて」
「いいんだよ」
俺は一瞬腰を浮かせて近づき、白くなってしまっている彼女の手にそっと触れた。
「それでいいんだ。聞かせてくれてありがとう」
少しでも哀川さんの心が安らぐように、優しい声を心掛けて俺は囁く。
「俺が辛い時は哀川さんが守ってくれる。哀川さんが辛い時は俺が守る。そういう約束でしょ?」
「ハルキ君……」
強張った手から少しだけ力が抜けて、俺の手を握り返してくれた。
さらにその手を握り返しながら、俺は尋ねる。
「哀川さん、お父さんに会いたい?」
手紙の終わりにはそういう意味のことが書かれていた。
許されるならもう一度、美雨に会いたい。
会って謝りたい。
そんな言葉で哀川さんとの再会を望む言葉が綴られていた。
お父さんは哀川さんに会いたがっている。
じゃあ、哀川さんはどうなのだろう?
「……わからない」
震えるような声だった。
「だって、あたしはもうあの頃のあたしじゃない。もちろん、文句を言ってやりたい気持ちはある……今さらなんなんだ、って引っ
でも、と言葉は続いた。
「あたしがあの頃のあたしじゃないように、父親だって今は他の家庭を持ってる別の人間かもしれない……そんな人に今さら会ったって……」
俺は哀川さんの横顔をじっと見つめる。
今の言葉が本心ならそれでいい。
だけど、彼女は迷っているようにも見えた。
だから一言、言葉を掛けてみる。
「今さらだって良いんじゃない? 引っ叩いて哀川さんがスッキリするなら、それは良いことだと思う」
「そう……かな?」
「うん、そうだよ」
哀川さんがこちらを見る。
唇に少しだけ笑みが浮かんだ。
「父親を引っ叩くことを勧めるなんて悪い人ね、ハルキ君」
「俺は引っ叩く父親がもういないからね。出来るうちにやっておいた方がいいよ?」
「あは、すごいブラックジョーク。あたしじゃなかったら引いてるわよ?」
「もちろん哀川さんだから言ったんだよ」
俺は茶化して笑ってみせた。
すると哀川さんの笑みも少し大きくなった。
肩の力が抜け、彼女は黒髪をかき上げて耳に掛ける。
「ありがとう。ちょっと楽になったかも」
「良かった。じゃあ……会いにいく?」
「ううん、無理」
「え?」
哀川さんは俺の手元を指差す。
そこにはさっき受け取った便箋。
「住所見てみて。差出人の方」
「あ……」
北海道。
それも都市部じゃない。
聞いたことがない町名だった。
「スマホで検索してみたんだけど、だいぶ北寄りみたい。北海道ってだけでも遠いのに、この街からじゃ、とてもじゃないけど気軽にいける距離じゃないわ」
……参った。
まさかそこまで遠いだなんて。
「女を作って子供を捨てたのがよっぽど後ろめたかったんでしょうね。ちょっとでも遠くへ、って思って逃げたんじゃないかしら」
「じゃあ、せめて電話とか……」
「番号書いてある?」
「……ないね」
「でしょ?」
手紙には謝罪の言葉こそ並んでいるけど、電話番号やメールアドレスの類は書いてなかった。これじゃあすぐに連絡を取ることはできない。
「罪悪感には圧し潰されそうだけど、かといって気軽に連絡を取るのも怖い、ってところじゃない? だから連絡先が一切書いてないの。思い出してみると、あたしが子供の頃もそういう人だった気がする。ウチの母親にもいつも滅茶苦茶に言い負かされてたし」
思わずため息をついてしまいそうになった。
だけど、他人様の親御さんに対して失礼だと思い、どうにか堪えた。
「ええと、じゃあ……手紙の返事を出したりとか?」
「手紙で引っ叩ける?」
「出来ないね……」
文句を書くことは出来るだろうけど、それで哀川さんの気が済むとは思えない。
万事休すだ。
打つ手がない。
……と、今までの俺なら思ったことだろう。
だけど、もう違う。
あの夜、哀川さんと抱き締め合って、自分の気持ちに気がついて、俺はきっと――少しだけ変われた。
だから、やれることはすべてやろうと思う。
「ねえ、哀川さん」
街灯の下、俺は彼女に提案する。
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次回更新:土曜日
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