第38話 勝利の鍵はすでにある(哀川さん視点)

 中庭の花壇の真ん中には、大きな木が一本、立っている。


 あたしはその根元で座り込んでいた。

 両足を抱え、膝に額を押し当てている。


 桐崎きりさきさんに言い負かされた時から、ずっとこのまま。


 気づけば陽は傾いて、空は赤くなっている。

 もう夕方になっていた。


 でもあたしは両膝を抱えたまま、まったく動けない。


 桐崎さんはもうここにはいなくて、取り残されたあたしだけが夕日に赤く照らされている。


 でもふいに頭の上に影が落ちた。

 そして声が掛けられる。

 どこか残念そうな声だった。


哀川あいかわ先輩でも駄目でしたか……」


 ゆにちゃんだ。

 きっと桐崎さんからあたしのことを聞いたのだろう。


「立てますか?」


 あたしは膝を抱えたまま、小さく首を振る。


「……わかりました。じゃあ、そのままでいいです」


 残念そうなところからゆにちゃんは一転して明るい声になり、あたしに言う。


「どうか落ち込まないで下さい。夏恋かれん先輩のことを知って、それでもなお挑める人なんて滅多にいません。哀川先輩の想いが足りないとか、そういうことではぜんぜんないです」


 気を遣った、慰めの言葉。

 なお挑めている、ゆにちゃんだけが言える言葉だった。


「…………ゆにちゃんは」


 あたしはどうにか声を絞り出す。


「ゆにちゃんは……やっぱり強いわね」

「わたしだってギリギリですよ」


 困ったような苦笑が頭の上から聞こえた。


「夏恋先輩は懸けてるものが大き過ぎます。何の迷いもなく、人生丸ごと全ベットですから。正直、常軌を逸してます。わたしも挑むのは怖くて仕方ありません」


 でも、ゆにちゃんは戦っている。

 こんな小さな体で。

 たった独りで。


「これはわたしの予測ですけど……たぶんチャンスは今しかないんです」

「どういうこと……?」


 わずかに顔を上げて、ゆにちゃんを見上げる。

 夕日を背にして、彼女は神妙な面持ちをしていた。


「たとえば、運命なんてものがあるとして……」


 小さな手がポシェットに触れる。

 どこか、すがるように。


春木はるき先輩にとっての運命の相手は、夏恋先輩なのかもしれません。今は子供の頃に助けてもらった申し訳なさが邪魔して気づいてませんが、あの人の心の中にはきっと夏恋先輩への想いがあります」


 それは……あたしたちにとって、ひどく辛い話だった。

 でも、そうだとしても納得できなくはない。


 子供の頃から唯一名前で呼んでいる、幼馴染。


 それが心を許している証拠だとするなら、ハルキ君が桐崎さんのことを心の奥で想っていても不思議じゃない。


「いつか夏恋先輩への申し訳なさが無くなれば、春木先輩はきっと自分の気持ちに気づきます。それは決して遠い先のことじゃない……だからその前に射止める必要があるんです」


 決意を込めた眼差しで、ゆにちゃんは言う。


「あの人が自分の『好き』に気づく前に、あの人の心を新しい『好き』で埋め尽くす。それが春木先輩を好きになった、わたしたちの唯一の勝利条件です。時間はありません。手段を選んでいる暇もない。だから……」


「……だから、ゆにちゃんは同盟相手を求めてたのね」


「はい。わたしの買い物デートやこないだのダブルデートみたいに、3人なら春木先輩を連れ出す理由をどうにか作れますから」


 春木先輩はなかなか距離を詰めさせない、とゆにちゃんはよく言っていた。


 ハルキ君をもっと誘いやすくするために、ゆにちゃんは同盟相手を探していたのだろう。


 複数で出掛けるといっても、3人目が桐崎さんだと差は開くばかりだろうし。


 でも。


「……ごめんなさい」


 あたしは両膝を抱えたままでつぶやく。


「あたしは……ゆにちゃんと一緒には戦ってあげられない」

「…………」


 迷うような間があった。

 少しだけ哀しそうに、ゆにちゃんは口を開く。


「どうしても……立てませんか?」

「……ごめんなさい」


 もう一度、謝った。

 すると彼女はわずかな吐息と共にうなづいた。


「……わかりました。もう無理は言いません」


 そう言うと、切り替えるようにニコッと微笑んだ。


「なんだかんだ言って、哀川先輩といた時間はとっても楽しかったです。こうしてお話することも、もうなくなっちゃうんでしょうけど……どうかお元気で。あとのことは任せて下さい」


 ツインテ―ルを揺らし、ぺこっと可愛くお辞儀。


「じゃあ」


 小さく手を振って、ゆにちゃんは背中を向けた。

 そのまま振り向くことなく、校舎の方へと去っていく。


 中庭には、あたし一人が残された。


 夕日は街並みの向こうに沈もうとしている。

 その景色を見つめて、あたしは囁く。


「本当にごめんね、ゆにちゃん……」


 一瞬、瞼を閉じる。


「……立てないなんて、ウソをついて」


 瞼を開くと同時、あたしはスカートを押さえて風のなかで立ち上がる。


 黒髪を耳にかけ、視線はゆにちゃんが去った、校舎の方へ。


 すでにいない彼女へ、謝罪の代わりに告げる。


「――あたし、ハルキ君のこと諦めてないから」


 桐崎さんには勝てない。

 そう思ったのは本当。


 ずっと昔からハルキ君のことを支えようとしてきた、その献身に張り合おうとしたって、今さら勝てるとは思えない。


 ゆにちゃんが言ったように、ハルキ君の心の奥に桐崎さんへの想いがあるっていうのも……きっと本当だと思う。


 だから勝つことはできない。

 でも――出し抜くことならできる。


 桐崎さんが去ってから、ゆにちゃんが来るまで、あたしはずっと考えていた。


 そしてたどり着いたのが、あたしにしかできない出し抜き方。


 それは奇しくもゆにちゃんの言った、『新しい好きで埋め尽くす』のと同じ方向性だった。


「だけど……これはあたし一人じゃないと、意味がないの」


 だから、ゆにちゃんと同盟は組めない。

 だから、落ち込んで立ち上がれないフリをさせてもらった。


 あたしにとって一番怖いのは、常識外れの桐崎さんよりもやっぱり……小さくて可愛くて強い、ゆにちゃんだから。


「さあ、それじゃ……」


 あたしは勢いよく歩きだす。


「勝負をつけに行こうかしら」


 もちろん向かうのは、ハルキ君の家。


 ゆにちゃんも時間がないと言っていた。

 だから今夜ですべて奪い去る。

 

 最短の最速で桐崎さんを出し抜いてみせる。


 あたしならそれが出来ると思うから。


「待ってなさい、ハルキ君」


 獲物を狙うハンターのような気分で、あたしは歩いていく。


 ――でも、思った通りにはいかなかった。



              ◇ ◆ ◆ ◇



 教室で鞄を取ってきて、学校の正門を出た時だった。


 ふいにあたしのスマホが鳴った。


 自慢じゃないけど、あたしのスマホに連絡が来ることなんて滅多にない。


 考えてみたら、ハルキ君とも連絡先を交換してないし、あたしの番号を知ってる人間自体がほぼいなかった。


 だから嫌な予感がした。

 ディスプレイを見て、その予感が正解だとわかって眉を寄せる。


 母親からだった。


 あたしは通話ボタンを押し、低い声で言う。


「なに?」


 まさか今さら普通の親みたいに無断外泊を叱ってくる気?


 一瞬そう思ったけど、違った。

 母親が口にしたのは、予想外の内容だった。


「は? ……あたしに……手紙……?」


 母親が差出人が誰かを言い、あたしは思わず足を止めた。


「…………お父さんから?」


 子供の頃に女を作って出ていった、父親。


 その父親からあたし宛に手紙がきていた――。

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