第30話 美しい月夜に心は溶けて
宝石のような瞳から、光の欠片のような涙がこぼれている。
俺は呆然としてしまった。
え、どういうこと?
どうして泣いてるの?
混乱する俺の脳裏に蘇るのは、彼女から言われた言葉。
――なんで、そんな当たり前のような顔で、そんな哀しい話ができるのよ、キミは……。
でも俺はただ昔の話をしただけだ。
哀川さんが傷つく要素なんてどこにもない。
そのはずだ。
「お、落ち着いて。一体、どうしたの、哀川さん……?」
テーブルの前に座っていた俺は、慌てて立ち上がり、彼女に駆け寄る。
すると彼女は顔を伏せ、俺のシャツの裾をぎゅっと握ってきた。
「それはこっちのセリフよ……っ」
「え?」
分からない。
何がそんなに哀川さんの心を乱してるんだ?
「ごめん。理由は分からないけど、俺のせいなら謝るから……っ」
「違う!」
振り絞るような声が響いた。
「ハルキ君が謝ることなんてない。でも当たり前のような顔もしないで」
「え、ど、どういうこと?」
彼女が顔を上げる。
その瞳はやっぱり涙に濡れていた。
「お父さんとお母さんが亡くなったんでしょ?」
「う、うん。でもそれは10歳の時だから……7年も前のことだよ?」
「違うってば!」
「な、なにが違うの?」
本当に分からない。
哀川さんは何を言いたいんだ?
「……あたし、自覚があるの。辛いことを話す時、あたし、いつも膝を抱えてる……」
それは確かにそうだった。
片足を伸ばし、もう片方の足を膝立ちで抱えるポーズ。
その仕草を俺は彼女が心を守ろうとする時の癖だと思っていた。
「ハルキ君もよ」
「え?」
「気づいてないでしょ? 昔の話をしてくれた時の今のハルキ君、まるで――」
痛ましそうに彼女の眉が寄る。
「――能面みたいな無表情だった。話をしてる間、ずっと」
そんな馬鹿な、と思って俺は自分の顔に触れる。
そして、
「……っ」
息を飲んだ。
顔に触れた指先が氷みたいに冷たかった。
まるで血が通ってないみたいだ。
頬もひどく強張っている。
「うそ? なんで? そんな、俺……」
戸惑う俺の言葉に対し、哀川さんは激しく首を振る。
だが俺はそれでも信じられない。
「……だって7年も前の話だよ? 今、高2だから親戚とのことも落ち着いて2年近くになるんだ。だからもう全部平気なはずなのに」
「……違うの」
もう何度目かの否定。
でも今度の声は小さく、そしてひどく哀しそうだった。
「キミは平気なんかじゃない。今もずっと傷ついてる。その傷は……まだ塞がってない」
……言葉を返せなかった。
傷ついている自覚なんてなかったから。
確かにトラウマはあると思ってた。
過去のことが原因で、俺は他者と近しい関係になることに怯えがある。
ただ、それは後遺症のようなもので、哀川さんがここまで心を乱すような異常があるなんて思ってなかった。
でも指の冷たさや頬の強張りは本物だ。
今までも過去の話をする時、俺はこんな状態だったんだろうか。それなら相手の反応で分かる気がするのに……。
……ああ、いやそうじゃない。
俺は一人暮らしをしていることをクラスメートたちに黙っている。
当事者の
あの時は手芸部の部室で、夏恋が色々と茶々を入れて混ぜっ返してきた。だから今みたいな異常な緊張をすることもなかったんだろう。
「そうか……」
俺はまだ、傷だらけなんだ。
まるで他人事のように、ぼんやりとそう思った。
ふと見たら、窓の向こうはもう夜の帳が下りていた。
……今日は晴れてたから、今夜は月がきれいだろうなぁ。
現実逃避だと分かりながら、またぼんやりとそんなことを思った。
「……ごめんなさい」
ふと聞こえた声に見ると、哀川さんの肩が小刻みに震えていた。
「……あたし、ずっとキミに寄り掛かってた。お父さんお母さんを亡くして、まわりの人間からも辛い目に遭わされて、あたしなんかより、キミの方がずっとずっと苦しんでたはずなのに……っ」
また涙が溢れ、床へとこぼれ落ちていく。
……ああ、優しいな、哀川さんは。
少しだけ心が温かくなった気がした。
俺はシャツを握って震えている彼女の手をそっと握る。
「そんなことないよ」
出来るだけ柔らかい声になるように、静かに囁く。
「苦しさにどっちが上か下かなんてない。哀川さんの苦しさは、哀川さんにとって世界一苦しいものなんだ。それでいいんだよ。我慢できなくなった時は、頼ってくれていいんだ」
あの日の俺も夏恋に頼った。
そのせいで夏恋は帰国して、イギリスで過ごすはずの人生を曲げてしまった。
俺はそれを心底後悔しているけれど、でも同時にあの日の夏恋のようでありたいと思ってる。
いつか今度は俺が夏恋の窮地を救えるように。
桐崎家の人たちに恩返しができるように。
誰かを助けられる人間でありたい。
「哀川さんが苦しい時、迷わず俺を頼ってくれたら、こんなに嬉しいことはないよ」
「……っ」
彼女は強く、びっくりするくらい、とても強く唇を噛んだ。
俺は哀川さんの気持ちを少しでも楽にしたくて言ったつもりだった。
でもそんな俺の言葉を聞いた彼女は、もっと辛そうに嗚咽をこぼす。
「ハルキ君、それは……キミの歪みよ」
「ゆが、み……?」
「そう」
悲壮感に満ちた瞳が俺を見据える。
「ゆにちゃんは今みたいなキミをヒーローのように感じたんでしょうね……。でもあたしは違う。あたしには分かる」
シャツを握る手にぎゅっと力がこもった。
「あたしも子供の頃にお父さんが女を作って出ていった。母親はあたしに愛情なんてくれずに、今も男漁りを続けてる。キミほどじゃないけど、失くしたものの痛みはあたしも知ってる」
力を込め過ぎて、哀川さんの指が白くなり始めていた。
「だから言えるの。これはきっとあたしにしか言えないこと。キミに嫌われるかもしれないけど、そう考えると怖くて堪らないけど、でも今伝えなきゃ……っ。だから言わせて!」
そうして、いつも膝を抱えていた少女は。
なけなしの勇気を振り絞るように。
その声を張り上げた。
「キミは歪んでる! もう誰も助けようとしないで! あたしのことも、ゆにちゃんのことも、もう放り捨てて! キミが本当に助けなきゃいけないのは、キミ自身なんだから……!」
言葉が心のなかで木霊した。
鳴り響く鐘のように、何度も何度も反響する。
胸のなかが波打つのを感じた。
でもその正体がまったく掴めない。
「分からないよ……」
自分の声がまるで他人のものように聞こえた。
哀川さんの言わんとしていることは分かる。
俺は
あの無敵の幼馴染と同じように生きるなんて無理だってことは、心のどこかで分かっている。
でも。
だけど。
「自分の助け方なんて……俺には分からない」
その瞬間だった。
シャツを握っていた手が離れ、弾かれるようにこっちへきた。
あ、と思った時には――抱き締められていた。
柔らかな胸のなかに顔をうずめられ、細い腕にぎゅっと抱え込まれる。彼女の匂いで肺がいっぱいになり、何もかもが包まれる。
そして、声が響いた。
月明かりのように優しく、まるで降り注ぐように。
「あたしが守ってあげる――っ!」
涙が額や頬に降ってくる。
止めどなく、降り注いでくる。
「あたしにはキミを助けることなんて出来ない……っ。でもいつかキミがキミ自身を助けられるようになるまで、あたしがずっと抱き締めて守ってあげる!」
だって、と言葉は紡がれる。
「キミがそうしてくれたから! あの日、独りぼっちの公園で、キミがあたしを見つけてくれた。壊れそうなあたしの心を守ってくれた……っ」
窓の向こうから、月明かりが差し込んできた。
「ゆにちゃんにも桐崎さんにもぜったい負けない! これはあたしにしか出来ないことだもの! ぜったい、ぜったい離したりしないからぁ……っ!」
それは夏恋のように力強い言葉じゃなかった。
ゆにちゃんのように計算された言葉でもなかった。
まるで泣きじゃくる子供のように、弱々しくて必死なだけの言葉だった。
だから響いた。
太陽のように強くはなく。
星のようにきらめくこともなく。
月のように――か弱くて優しい。
そんな光が俺の心を照らしていく。
……ああ、そういえば。
哀川さんに抱き締められながら、ふいに気づいた。
俺はクラスメートの
でも哀川さんにだけは最初から距離感なんてゼロだったし、ドキドキしっ放しだった。
ああ、そうか。
そうだよな。
きっと俺は最初から哀川さんのことを――。
「だったら」
柔らかい胸の感触を素直に名残惜しく感じながら、俺は背筋を伸ばしてちゃんと立つ。
哀川さんはモデルみたいに背が高い方だけど、それでも男子の俺の方が若干上だ。
「俺も君を守るよ」
力いっぱい彼女のことを抱き締め返した。
「ハ、ハルキ君……!?」
「哀川さんを助けることは、哀川さんにしか出来ないんだと思う。でもそんな君が俺を守ってくれるって言うなら、俺も君のことを守るよ」
彼女の体が「……っ」と小さく震えた。
俺はさらに言葉を重ねる。
「一緒に歩いていこう。それで、いつか一緒に助かろう」
しゃくり上げる声が聞こえた。
彼女は必死に返事をしようとして、でも涙声で上手く言葉に出来なくて、何度も頑張って、ようやく小さく声を生み出す。
「……うん」
細い腕がしっかりと抱き締め返してくれた。
それが堪らなく嬉しい。
お互い半泣きになりながら、俺たちは抱き締め合う。
………………。
…………。
……。
そうしてどれくらい経っただろうか。
ぽつりと彼女がつぶやいた。
「……ハルキ君、ちょっと力緩めて。ちょっと痛い」
「ごめん、我慢して。もう少しだけ思いっきり抱き締めてたいから」
「いいけど……あとどれくらい?」
「あとちょっと。哀川さんの胸が柔らかくて気持ちいいし」
「あ。ヤラしいとこ、とうとう隠さなくなったわね?」
「うん。もう全部さらけ出して、素直になっていいかな、って」
「じゃあ、あたしも噛みたい」
「それはだめ」
「なんでよ~!」
抱き合ったまま、弾けるように笑い合う。
美しい月の夜。
心は溶けて、寄り添い合って、俺たちは――少しだけ強くなれた気がした。
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次回更新:土曜日(ちょっと風邪気味なので、木曜は休みます。すみません)
次話タイトル『第31話 寝起きの哀川さんは照れカワイイ』
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