第29話 春木音也の昔の話

「ハルキ君って、どうして一人暮らしをしてるの?」


 哀川あいかわさんにそう問われ、床でしくしくしていた俺は顔を上げる。


「え、なんで突然?」


 ここは俺の部屋。

 なんやかんやあって哀川さんにまた肩を噛まれ、もうお婿にいけないかもと泣いていたところだ。


 抱いていたヒヨコの貯金箱を離して起き上がると、哀川さんはベッドに腰掛けた状態で小首をかしげる。


「カラオケの時、ゆにちゃんに聞いてみろって言われたから」

「……なるほど?」


 分かったような、分からないような話である。

 ただ、おそらく俺がドリンクバーに行っていた間のことだろう。


 別に昔の話をすることは構わない。


 そもそも哀川さんが最初にこの部屋に来た時、家庭の事情を聞いて、こっちも話すべきかなと思ったくらいだし。


「うーん、どこから話せばいいかなぁ……」


 わりと込み入った話なので、分かりやすく説明しようとすると、考えてしまう。


「とりあえずお茶淹れるね。哀川さん、何がいい?」

「こないだのカモミールティー。まだあったわよね?」


 勝手知ったるなんとやら。

 哀川さんは当然のようにご注文をなさる。


 さっきまで落ち込み気味だったけれど、俺の肩を噛んで気分は戻ったらしい。


 右肩に続き、左肩も尊い犠牲になった甲斐があったと言えるかもしれない。


 俺は「はいはい」と言って立ち上がる。


 キッチンにいき、棚からティーパックを取り出した。以前にも哀川さんに出した、上の階のご近所さんからもらったやつだ。


 ちなみにあの時は適当なカップだったけど、最近は哀川さんがよく来るので、2人分のティーカップを用意してある。


 ヤカンでお湯を沸かしつつ、さてどこから話そうか、と考え込む。


 まあ、やっぱり最初から話した方が分かりやすいかな。


「――両親が死んだんだ」

「え?」


 ヤカンから蒸気が出始めたので、火を止める。

 うーん、ヤカンだと時間かかるし、そろそろ電気ポッドとか欲しいかも。


「10歳の時。交通事故で」

「……え、いや……え?」


「父親が医者だったんだよ。結構大きな大学病院の。で、夜中に患者さんに急変が起きて、母親の運転で病院に向かってる最中だったらしいんだ。俺は家で寝てたから知らなかったんだけどね。で、居眠り運転のトラックと衝突して、2人とも即死だったって」


 ティーポッドにティーパックを入れて、お湯を注ぐ。


 おっと、危ない危ない。

 お湯を入れすぎるところだった。


「あ、患者さんは他の先生が緊急手術して助かったらしいよ。トラックの運転手も軽症で済んだみたい。まあ、どっちも人から聞いた話だけど」


 ティーパックを入れたまま、しばらく蒸らす。


 3分15秒ぐらいがベストだよ、と以前に教えてくれたのは、上の階の彼女さん。毎日、彼氏さんに淹れてあげてるそうだ。


「父親は……父さんは結構お金持ちだったらしいんだ。そもそもお医者さんだし、父方のお祖父さんも病院の経営者だったらしくてさ。あ、そのお祖父さんも亡くなってるんだけど、諸々の保険金も合わせて、結構とんでもない額を相続することになったんだ、俺」


 スマホとにらめっこし、そろそろかな、とティーパックを取り出す。


「普通、当時の俺みたいな子供はお祖父さんお祖母さんに引き取られるんだろうけど、生憎、父方母方どっちも亡くなっててね。で、親戚に預けられることになったんだけど……あっ」


 手が滑って、ティーパックを床に落としてしまった。


 見たら、指がかすかに震えている。


 おかしいな。

 床に物を落とすなんてミス、普段はしないんだけどな。


「どこまで話したっけ? ……ああ、そうだ、親戚の話だ。みんな、欲に目がくらんじゃったみたいでさ。10歳の俺を取り合って、壮絶な争奪戦。親戚をたらい回しどころか、親戚に奪い合いをされたんだ」


 ティーパックを拾って、ゴミ箱に捨てる。


 ちょっと強めに投げ過ぎたかもしれない。

 ベチャッと嫌な音がした。


「まあ、仕方ないよね。俺を育てることになったら、養育費って名目で遺産を色々使えるだろうし。笑っちゃったのはさ、父方の叔母さんのところに預けられるじゃん? そしたらある日、母方の叔父さんがやってきて、『迎えにきたぞ』なんて言われて連れていかれて、そしたら叔母さんが『誘拐だ!』って大騒ぎして、警察沙汰になっちゃった」


 ティーポッドから2人分の紅茶をカップに注ぐ。


「小学校時代はずっとそんなことの繰り返しだった。なんだかなぁ、と思ったよ。父さんと母さんが亡くなったことを誰も哀しんでないんだ。俺が夜中にこっそり泣いてても、誰も気づかなかったしね」


 カップをお盆に乗せて……よし、準備完了。


「あー、この人たちにとって、俺は人間の形をしてないんだな、って思ったよ。小学生の子供のことが、あの人たちにはお金の形に見えてたんだろうね」


 俺はお盆を持ってキッチンから移動する。


夏恋かれんに言われたよ。『音也おとやは人生で一番辛い時、一番身近な人たちに遠慮のない悪意を浴びせられた。だから歪んじゃったのね』って。まあ、そんな大げさなことではないけどさ」


 部屋に戻り、テーブルに2人分のカップを置く。


「両親が亡くなったのは10歳の時だから、小学校5年だったかな? この辺、ちょっと記憶が曖昧なんだけど……まあ1,2年、そんな親戚の間を行ったり来たりさせられて、それで……」


 ティーカップの湖面に自分の顔が映った。

 思わず苦笑してしまった。


「……さすがに限界だったみたい。知り合いに電話したんだ」


 相手は当時、イギリスに引っ越してしまっていた、夏恋。

 

 今、考えると、小学校卒業間際の子供がよく国際電話なんて掛けられたな、と思う。よく覚えてないけど、それだけ必死だったんだろう。


 夏恋はお母さんがイギリス人で、お父さんは日本人。


 子供の頃はこっちに住んでいたけれど、小4の時にお父さんの仕事の都合もあって、お母さんの故郷のイギリスへ引っ越していった。


 その翌年、俺の両親が死んで、さらに1,2年後、俺が突然電話を掛けた。


 泣きながら――夏恋助けて、って。


 それでどうなったかと言うと、その2日後に夏恋は爆速で帰国してきた。

 両親を全身全霊で説き伏せて、俺へのサポート体制を完璧に構築して。


 もともと夏恋のお父さん――桐崎きりさきさんは父さんの親友だった。俺は覚えてないけど、お葬式の時も来てくれてたらしい。


「電話がきっかけで、父さんの親友だった人が来てくれたんだ。その人はすごい資産家で、俺のために弁護士まで用意して、親戚や役所の間に入ってくれた」


 結局、夏恋の一家は日本に戻ることになった。


 俺のために。


 桐崎さんは『この数年で英国でやるべきことはやったし、日本に戻るにはちょうどいい頃合いだったよ』と言ってくれたけど、本当かどうかは分からない。


 中学校に上がってからも親戚間の争いはなかなか沈静化せず、しばらく桐崎家に厄介になっていた時期もあった。


 いくつもの親戚の家や桐崎家を行ったり来たりしているうちに俺の中学時代は終わった。


 そして――。


「高校に上がる頃、ようやく落ち着いたんだ。親戚たちはまだ虎視眈々と俺の遺産を狙ってるけど、俺もあとちょっとで成人だしね。さすがにもう勝ち目は薄いと思ってるみたい」


 俺はティーカップを手にして、カモミールティーを一口。


「ここはその知り合いの人が経営してるアパートの一つなんだ。空き部屋を特別に貸してくれてる感じ」


 遺産があるから家賃は払えると言ってるんだけど、桐崎さんは断固として受け取ってくれない。


 逆に『それは君のご両親が、君のために残した大切なお金だから、もっと正しいことに使いなさい』と叱られてしまう始末だ。


 だけどやっぱり気が済まないので、俺は毎月、夏恋にこっそりと家賃を献上している。


 それでも相場の10分の1程度の額なので、子供の遊びのようなものだけど、少しでも桐崎家に渡せるものがほしいから。


 ……まあ、その家賃が手芸部の部費に代わってる疑惑があるので、家賃を上げると言われたら、俺は回避しようとするんだけど、それはまた別の話。


「俺は今、一応、法的には父方の叔母さんのところにいることになってるんだ。遺産の管理は叔母さんがしていて、毎月生活費が振り込まれてる。やろうと思えば、叔母さんが遺産を好き勝手に出来るんだろうけど、他の親戚たちと弁護士さんが目を光らせてるから、無茶は出来ない感じ。まあ、膠着状態かな」


 ここまで本当に長かった。

 思い出してもめまいがするくらいだ。


「今でも毎月、叔母さんから猫撫で声で電話が掛かってくるよ。正直、あの声を聞く度、吐き気が止まらなくなる。まあ、それもあと少しだけどね。成人したら晴れて縁を切るつもりだし」


 さて、一人暮らしをしている説明としては、こんなところかな?


 俺は自分のカップを置いて、ベッドの哀川さんの方を見る。


「紅茶、飲まないの? ずっと置いといたら冷めちゃうよ、哀川さ――えっ」


 何気なく話しかけていた途中で、俺は驚いて息を飲んだ。


「ハルキ君、なんで……」


 宝石のような瞳から、光の欠片のような涙がこぼれていたから。


「なんで、そんな当たり前のような顔で、そんな哀しい話ができるのよ、キミは……」

 

 なぜか。

 本当になぜか分からないけど。


 哀川さんが俺を見つめながら泣いていた――。

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