第23話 わたしが先輩を好きになった日(ゆに視点)
わたし、
人との距離感をひどく気にする。
必要以上に人に踏み込ませない。
そんな春木先輩が夏恋先輩にだけは心を許し、名前で呼んでいる。
わたしもそこに行きたい。
春木先輩にとって、特別な人間になりたい。
だから勇気を振り絞って『わたしを名前で呼んで下さい』ってお願いしたけど……どうやら失敗してしまったみたい。
春木先輩はショックを受けたように固まってしまった。
……ああ、やっちゃった、って思った。
「――ゆにちゃん。お話、聞かせてくれる?」
わたしは小さく吐息をこぼす。
話……話か。
まあ、そうなるのは当然だと思う。
哀川先輩からすれば、何が起きたのか分からなかっただろうし。
2人だけになったカラオケルームには明るい音楽だけが流れ、ディスプレイではどこかのアーティストが曲紹介をしていた。
わたしはテーブルに視線を落としたまま、口を開く。
「哀川先輩は春木先輩から聞いていますか?」
「なにを?」
「――春木先輩が一人暮らしをすることになった経緯」
哀川先輩は首を振る。
そうだろうと思った。
今のは一応の確認だ。
「ご本人に聞いてみて下さい。かなりプライベートな話ですけど、哀川先輩にならとくに気にせず話してくれるでしょうから」
それを聞けば、今、春木先輩とわたしの間でどういう感情の行き違いがあったのか、だいたい分かるはず。
敵に塩を送るような行為だけど、哀川先輩が春木先輩を外に出してくれなかったら、空気は凍りついたままだった。これくらいのお礼はしないと、筋が通らない。
肩を落とすわたしに対して、哀川先輩は気遣うような言葉を掛けてくる。
「ゆにちゃんはハルキ君のこと、すごく詳しいのね」
「まあ……ずっと見てきましたから」
「ずっと? でもゆにちゃんは1年生だから、ハルキ君と知り合ってまだ2か月ぐらいでしょ?」
今は6月。
普通の知り合い方なら、4月に入学して2か月ぐらいの付き合いになる。
でも違う。
「半年です」
わたしは短く言った。
「わたしがハルキ先輩と知り合って、そろそろ半年を過ぎます」
半年を『ずっと』と言っていいのかは分からないけど、でもわたしにとっては『ずっと』だった。
「出逢い方は……ちょっと劇的でした」
ああ、ダメだ。
する必要のない話を始めようとしてる。
その自覚はあったけど、わたしの口は止まらなかった。
「わたし、もともとすごいおばあちゃん子で……両親が忙しい人で、おじいちゃんも寡黙で不器用だったから、子供の頃からほとんどおばあちゃんが育ててくれた感じなんです」
話しながらポシェットを引き寄せる。
わたしの思い出の、大切なポシェット。
「これも子供の頃におばあちゃんが買ってくれたんです。このポシェットを身に着けていれば、どこにいてもおばあちゃんがそばにいてくれてる気がして、こっそり小学校にも持って行ってました。中学生になってからも制服の上からつけてて……」
「大好きなのね、おばあちゃんのこと」
「はい」
素直にうなづく。
瞼を閉じて、そっと続けた。
「そんなおばあちゃんが去年、亡くなりました」
「え……」
哀川先輩が小さく声を漏らす。
わたしは自嘲を込めて苦笑した。
「正直、頭が真っ白になって涙も出ませんでした。お父さんもお母さんもわたしを心配して仕事を休んでくれて、おじいちゃんも慣れない料理を始めてくれたりして……だけど、わたし、ウソつきなので――平気な顔をしてました」
だって、心配かけたくなかったし。
そもそもおばあちゃんがいなくなったことを受け入れたくなかった。
だからお葬式が終わる頃には、もういつもの可愛いわたしの顔をしていた。
ちゃんとみんなを騙せてたかは分からないけれど、両親は仕事に戻り、おじいちゃんも辛そうな顔をすることは減っていった。
そして、わたしの心は取り残された。
本当はもっと家族に寄りかかるべきだったんだと思う。
でもそれをしないまま時間が過ぎ、平気な顔をしている仮面の下で、心だけが徐々に擦り切れていった。
今までと違って、寝る時やお風呂の時までポシェットが手離せなくなって。
顔は笑っているのに、気持ちだけがどんどん冷えていって。
そして、12月。
身を切るような風が吹く、とても寒い日。
「わたし、学校をサボっちゃいました。その日は受験の願書の話で先生に呼ばれていたのに、なんだか未来のことを考えるのがとても馬鹿らしくなってしまって……」
今この瞬間、わたしはこんなに空っぽなのに。
どうして将来の心配なんてしなくちゃいけないんだろう。
受験も。
学校も。
わたし自身のことも。
もういい。
全部どうでもいい。
「そんなことを考えて、
夕方。
太陽が西の彼方に沈み始めた頃。
廃品回収のトラックがわたしのすぐ後ろを通った。
小さい橋だったからギリギリの幅だった。
運が良かったのは、轢かれたりはしなかったこと。
運が悪かったのは、荷台から少しだけ飛び出していた、廃品の自転車のハンドルがポシェットの紐に引っ掛かってしまったこと。
『……え?』
ワケが分からないまま、当時のわたしは一瞬、トラックに引きずられた。
たぶんそのままいったら、大怪我をしていたと思う。
でも古いポシェットだったおかげで、強く引っ張られた拍子に紐が根元から切れた。
そしてポシェットだけが――宙を舞った。
『あ……』
わたしは呆然と見上げることしか出来なかった。
ポシェットが川へ落ちていく。
大好きなおばあちゃんが買ってくれた、思い出のポシェット。
唯一、わたしの心の拠り所になってくれた、形見のポシェット。
真っ白なポシェットは夕焼けのなかで舞い、冷たい冬の川へと吸い込まれていく。
「あの瞬間、わたしは自分の心にヒビが入る音を聞きました。錯覚かもしれないけど、確かに聞いた気がしたんです」
まるで稲妻のようにヒビは広がっていって。
ああ、ダメだ。壊れる。わたしは壊れる。
そんな確信と共に、心が砕け散る――その直前。
「春木先輩がわたしの横を駆け抜けました」
「ハルキ君が?」
「はい。まるでお魚をくわえたドラ猫みたいに必死な顔で、脇目も振らずに駆け抜けて、橋から全力でジャンプしたんです」
「え……っ。下は川でしょ? しかも12月でしょ?」
「あは、信じられないですよね。正直、わたしだって向こう見ずにも程があると思います。でもそれをやってくれちゃったのが――あの日の春木先輩なんです」
正直、格好良くはなかった。
絶望的な顔で落ちてく様子は、むしろコメディみたいだった。
でも無我夢中で伸ばした先輩の手は、わたしのポシェットを掴んで抱き締めてくれた。
春木先輩が川に落ちて。
盛大に水柱が上がって。
夕焼けでやたらと輝いて見えて。
「わたしは急いで川の方へ下りていきました。春木先輩もなんとか岸にたどり着いていて、それで開口一番、なんて言ったと思います?」
――ご、ごめんね! 不審者とかじゃないんだ!
「あー……ハルキ君のその感じはなんか分かるかも」
哀川先輩が何か思い出すような顔でうなづいた。
でしょうね、とわたしは思う。
きっと哀川先輩の時も春木先輩は似たような感じだったのだろう。
「あとで聞いた話ですけど、春木先輩、中学生の女の子が思い詰めた顔で橋の上にいるから、気になってずっと見てたそうです」
声を掛けた方がいいかな?
でも俺みたいなモブが声を掛けて、キモい奴と思われたらどうしよう。
最悪、不審者扱いされる可能性だってあるし。
――そんなことをぐるぐる考えて、ずっとわたしのことを見ていたらしい。
「でもわたしがトラックに引きずられかけたのを見て、思わず駆け出したそうです」
すぐに紐が切れて助かったけど、でもポシェットが宙を舞ってしまって。
「それを見ていたわたしが、この世の終わりみたいな顔をしてたらしくて、だから『あのポシェットはあの子にとって大切なものだ……っ』って思って……」
「橋からジャンプした?」
「ええ。直後に『何やってるんだ、俺!?』って後悔したそうですけど」
「ふふっ、ハルキ君らしいわね」
「はい、とっても春木先輩らしいです」
岸にたどり着いて、開口一番に言ったのは、『不審者じゃないんだ』という馬鹿みたいな言い訳。
わたしの思い出を守ってくれたのに。
大切な形見を助けてくれたのに。
わたしからしたら、胸を張ってかっこつけてくれていい場面なのに、必死に言い訳をする春木先輩がおかしくて、おかしくて……。
「わたし、思わず笑っちゃいました。おばあちゃんが亡くなってから、ウソじゃない笑顔なんて浮かべたことなかったのに。我慢できなくなって噴き出しちゃったんです」
その瞬間だった。
大粒の涙が瞳からこぼれた。
晴れ渡った夕焼け空に、きらきらの雨が降っていく。
その日、やっとわたしは泣けた。
おばあちゃんがいなくなってしまった哀しみを、ようやく抱き締めることができた。
「進路を彩峰高校に決めたのは、そのすぐ後のことです。理由はもちろん春木先輩がいるから」
春木先輩が部活に入っていると聞いて、12月のうちからこっそり手芸部に出入りさせてもらった。
まだ受験生だったけど、ぜったいに受かると心に決めていたし、夏恋先輩とも知り合って、春木先輩と2人で放課後は受験勉強を見てもらった。
「それからの付き合いなので、わたしが春木先輩と出逢ってからは約半年です」
わたしはポシェットのカバーを外していく。
春色の彩りを脱いだ後の色は、白。
ただし、所々にシミが残ってしまっている。
「それって……」
「川に落ちた汚れ、全部は落ちなかったんです。でも哀しくはありません。汚れも哀しみも春木先輩の色が包んでくれますから」
春色のカバーをしっかり付け直し、わたしはポシェットを抱き締める。
「春木先輩はわたしの心を守ってくれました。あの時、春木先輩が駆けつけてくれなかったら、きっとわたしは受験もしてません。今頃、家に引きこもって両親やおじいちゃんを哀しませていたと思います」
わたしが決定的に壊れてしまう、その直前に駆けつけて、春木先輩は救ってくれた。
大げさだと言われるかもしれない。
思い込みだと笑われるかもしれない。
でもこれがわたしの真実。
ウソつき少女が胸を張れる、本当のこと。
「哀川先輩」
春色のポシェットを抱き締めて、わたしは顔を上げる。
部屋にはカラオケのリリカルな音楽が流れていて。
ミラーボール調のライトが色鮮やかに輝いていて。
あの日の想いに背中を押され、わたしは告げる。
目の前のびっくりするぐらい綺麗な人に負けないように。
真っ直ぐ前を見て、正面から堂々と。
「わたしは――春木先輩が好きです」
哀川先輩の瞳が動揺するように揺れた。
わたしは怯まない。
一歩だって退きはしない。
だって今のわたしがあるのは、春木先輩のおかげだから。
「この気持ちは誰にも負けない。夏恋先輩にだって、哀川先輩にだって、絶対に負けません」
夏恋先輩がどれだけ特別だろうと。
哀川先輩がどれだけ綺麗だろうと。
「最後に春木先輩の心を射止めるのは、わたしです」
言い切った。
言い逃れが出来ないくらい、真っ向からの宣戦布告。
それを聞いて、哀川先輩は困ったように微笑んだ。
どこか儚げな、風に飛ばされる花のような微笑みだった。
「……強いのね、ゆにちゃんは」
小さな吐息。
「正直、羨ましいな……あたしはゆにちゃんみたいなこと、言えないもの」
「……?」
どういう意味ですか?
と問おうとした時だった。
ガチャッと部屋のドアが開いて、春木先輩が帰ってきた。
「あ……っ」
わたしは反射的に声を漏らし、口を噤んでしまう。
一方、春木先輩も少し気まずそうだった。
「はい、言われた通り持ってきたよ、メロンソーダ」
哀川先輩の前にコップが置かれる。
でも春木先輩はもう一つコップを持ってきていた。
「そっちもなくなりそうだったから」
視線はわたしのコップの方へ。
そこに入っていたオレンジジュースは確かに残り少なくなっていた。
春木先輩らしい気の遣い方だった。
哀川先輩の前を通り、春木先輩がこっちに来る。
……謝らなくちゃ。
名前で呼んで下さい、なんて言って困らせちゃったから。
もうあんなこと言いません。
今まで通り、『
そう言おうとした、矢先だった。
「オレンジジュースで良かったよね? はい、これ――」
少しだけ言いづらそうに言葉に詰まってから。
春木先輩は言った。
「――ゆにちゃんの分」
「へ?」
間の抜けた声が出てしまった。
弾かれたようにバッと顔を見ると、春木先輩は気恥ずかしそうに頬をかいていた。
聞き間違いじゃない。
今、確かに名前で呼ばれた。
「え? な? はる、せ……な、なん……っ」
「ダ、ダメかな?」
「やっ、だめっ、では……っ」
「ああ、良かった」
ホッとしたように春木先輩は肩を撫で下ろす。
一方、わたしはぽかんとしてしまう。
この部屋とドリンクバーを往復する間に一体何があったのだろう?
疑問が洗濯機のようにぐるぐる回るなか、春木先輩は柔らかく笑う。
「じゃあ、これからは――ゆにちゃんで」
「……っ」
改めてもう一度言われてしまい、頬が一気に熱くなった。
あ、だめ。
だめだ。
これダメなやつ……っ。
春木先輩と、ライバルの哀川先輩の前で、顔が赤くなっちゃう!
慌てて両手で顔を隠そうとすると、最悪なタイミングで春木先輩が心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 大丈夫? ゆにちゃん」
「~~~~っ」
カァァァァッと頬が熱くなっていく。
顔から火とかビームが出ちゃいそう!
春木先輩の後ろでは哀川先輩が『よく分からないけど、やるじゃない、ハルキ君』みたいな顔をしてる。
「あ、あ、あ……っ」
恥ずかしい。
わたし、こういう素の表情見られるのが一番だめなのにぃ……!
部屋の一番奥にいるから逃げられない。
顔の温度を下げることも出来っこない。
もう!
もう!
もう!
こうなったら……っ!
ウソつき少女のわたしは、苦し紛れに大きな声でウソをつく。
ぜんぶかき消して、部屋中に響けとばかりに。
「春木先輩なんて――嫌いですーっ!!」
「なんでぇ!?」
春木先輩の情けない声が盛大に響き、哀川先輩が爆笑した――。
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