第19話 哀川さんは甘噛みしたい。え、あまがみ!?

 前略。

 お父さん、お母さん。


 俺は今、人生の岐路に立たされているのかもしれません。


 ええ、はい。

 そうなんです。


 哀川あいかわさんから恥ずかしそうに『嚙んでみていい?』と聞かれたわけで……。


 そんな質問、生まれてこの方、されたことがないわけで……。


 何を言っているのか分からないかもしれませんが、俺にもさっぱり分かりません。


 だからもう本人に聞くしかないのです。


「ど、どどど、どういうことっ?」


 思いっきり上擦ってしまった。

 

 ここは俺の部屋。

 目の前のテーブルには夕ご飯の麻婆豆腐その他が載っていて、視線の先にはパーカーにホットパンツ姿の哀川さんがいる。


 その哀川さんは黒髪の毛先を手いじりしつつ、恥ずかしそうに目を逸らす。


「分かんない……」

「あ、哀川さんに分かんなかったら俺にはさっぱりなんだけども……っ」


「えっと……ハルキ君のご飯食べてると、なんか安心するの」

「そ、それは嬉しいけども……」


「だから、なんていうか……それを作ってくれたハルキ君も? 食べたら? もっと良い気持ちになれるかな、って」


「俺、食べられちゃうの!?」

「食べないし! だから噛むだけ! 噛んでみるだけだから!」


「ドラキュラじゃん!?」

「血は吸わないの! かぷっとするだけ! 甘噛みだから!」


「ええー……っ」

「ね? かぷっと」


 なんか可愛らしくかぷっと顔をされるけど、確かにそれはそれで可愛んだけど、しかしやっぱりワケ分からん。


 正直、ドン引きです。

 そんな俺を見て、哀川さんは両手で顔を隠す。


「やっぱ変よね。ごめん、何言ってんだろ、あたし……」

「あ、うん、正直だいぶ変だとは思います、はい」

「ごちそうさま。シャワー浴びてくる」


 いつの間にか、夕飯を食べ終わっていたらしく、哀川さんはきれいに空になったお皿とお椀を残して立ち上がる。


 俺はつられて視線を上げた。


「シャワー? 家でお風呂入ってきたんじゃなかったっけ?」


 玄関前で会った時、確か哀川さんはそう言っていたはずだ。

 ベッドの横に置いてあったトートバッグを手にし、哀川さんは答える。


「一回外に出たら浴びないと落ち着かないの、あたし。今日は下着持ってきたから、ジャージだけ貸してね」


 そう言いつつ、勝手知ったるなんとやらでクローゼットを開ける、哀川さん。

 俺のジャージを取り出すと、トートバッグと一緒に抱き締めて、ぽつりとつぶやく。


「……かぷっとさせてもらうのは、その後でいいから」

「えっ」


 噛まれることが決定してる!?


「ちょ、哀川さ――」

「じゃあ、よろしくね」


 慌てて呼びかけたが、彼女は逃げるように脱衣所に入っていってしまった。


 あとには呆然と固まる俺一人。


「変なのを自覚してるのに、それでも噛むの……?」


 そして俺に決定権はないの?


 噛まれるのか、俺。

 この後、哀川さんに……?


 ワケが分からない。

 分からな過ぎて現実感がない。


「あ、食器洗わなきゃ」


 現実逃避のために食器をキッチンにいって洗う。そうしているうちに背後のドアがガチャッと開いて、哀川さんが出てきた。


 昨日と同じ、俺のジャージを着た姿。

 昨日と同じようにドライヤーを洗面所から持ってきていて、黒髪は艶やかに濡れている。


「次、ハルキ君、どうぞ」

「あ、はい」


 言われるまま、今度は自分が脱衣所に入る。


 洗濯カゴには昨日と同じように哀川さんが脱いだパーカーやTシャツやホットパンツがあったが、昨日のように動揺することはなかった。とにかく現実感がなかった。


 シャワーを浴び終わり、パジャマ代わりのTシャツとスウェットで脱衣所を出る。


 ――部屋の電気が消えていた。


「……っ」


 なぜか、それで一気に我に返った。

 部屋の方を見ると、昨日と違って哀川さんはベッドに入ってはいなかった。


 カーテンの隙間から明かりが差し込み、部屋の真ん中で女の子座りしているのが見える。


「ハルキ君、こっち」


 呼ばれた。

 どうやらテーブルは部屋の奥に移動させたらしい。


「えっと、哀川さん……」

「座って」


 不思議と逆らえない空気だった。

 言われるまま、俺は彼女の正面に座る。


 濡れた瞳がわずかな明かりで輝いて見えた。


「ごめんね? こんな変なこと頼んで」

「あの、頼まれはしたけど、了承した覚えはないんですが……」


「変なのは自分でも分かってるの。でもよく考えてみたら……意外にナシじゃない気がするっていうか……むしろ名案? みたいな?」


「すごい。普通にスルーしてくる。拒否権がない……」

「だって」


 少しだけむくれた顔で、彼女は小首をかしげる。


「ゆにちゃんはハルキ君のこと噛みたい、なんて言わないでしょ? それに他の女たちも」


 ……ああ、そうだった。

 

 哀川さんがこんなことを言い出したのは、これが原因だった。


「ハルキ君の良いところ知ってるのは、あたしだけじゃないかもしれない。でもこうしたら……」


「わ!? ちょ……っ」


 細い腕が伸びてきて、Tシャツの首元が引っ張られた。

 わりとしっかり引っ張られ、俺の肩が露出する。


「首は……勘弁してあげる。跡が付いたらキスマークみたいになっちゃうし」

「跡付くぐらい噛む気なの!?」


「さあ? 初めてだから加減とか分かんないし」

「怖い怖い怖い! やっぱり哀川さんドラキュラなんじゃ……」


「いいから」


 指先に唇を塞がれた。


「黙って」

「――っ」


 ふわり、とリンスの香りがした。


 同じものを使ってるはずなのに、どうしてこんなにいい匂いがするんだろう。反射的にそんなことを思ってしまった。


 芸術品のように整った顔が近づいてくる。


 鼓動が加速度的に速さを増し、胸から飛び出しそうだった。


 自然と脳裏に浮かんだのは、学校にいた時の完璧にメイクした顔。

 一方、今近づいてくるのは、お風呂上がりの無防備なすっぴん。


 そのギャップにクラクラしてくる。

 恐ろしいのは、どっちも信じられないほど綺麗なこと。


 そんな哀川さんが真っ直ぐに近づいてきて、そして……。


「許してね?」


 耳元の囁き声の直後。


 ――かぷっ。


「んっ!」


 噛まれた。

 思わず声が出てしまった。


 でも歯は軽く当たっているだけ。

 むしろ……柔らかい唇の感触の方を強く感じる。


 な、なんだこれ!?

 なんなんだこれ!?

 俺、今何されてるんだ……!?


 大混乱のなか、哀川さんが咀嚼するように口を動かす。


「……ん、んんー……ん……っ」

「ちょ、哀川さんっ。ちょ、待っ……!」


 噛まれている肩がくすぐったい。

 甘い痺れのような感覚が断続的にやってきて、変な気分になりそうだ。


 しかも咀嚼の度に哀川さんが動くから、ジャージに包まれた胸が当たりそうになっている。


 俺はなんとか避けようともがくけど、哀川さんから『だめ。動かないで』と言うように押さえられて、ギリギリの回避を迫られる。


「哀川さん、本当に……っ。もうほんとに……!」


 頭のなかはもうぐちゃぐちゃだ。

 マズい。ヤバい。本当によくない。

 このままだと何かに目覚めてしまいそうだ。


「……ん……んんー……んっ……♡」

「哀川さんってばぁ……!」

 

 お父さん。

 お母さん。


 ごめんなさい。


 一人息子の音也おとやは今、自称『都合のいい女になりたい』美少女に性癖を捻じ曲げられています……っ。


 ………………。

 …………。

 ……。


 それからどれくらい時が経っただろうか。


 ようやく満足してくれたのか、哀川さんは水中から上がるように顔を離した。


「ぷはっ」


 その表情はなぜかキラキラしていて、お肌もツヤツヤになっている。


「なんだかすごくスッキリしちゃった♪」

「そうですか……」


 ……逆に俺は容量オーバーの経験をさせられて、ぜーぜー言ってるけどね。


 哀川さんは紅潮した頬を緩ませ、嬉しそうに「ふふっ」と微笑む


「これで良し。この先、ハルキ君が誰と付き合おうが、誰と幸せになろうが……キミに甘噛みした女はあたしだけだもん」


 そ、それが目的だったのか……。


 憔悴している俺を見つめながら、彼女はカーテンから差し込む光のなかで、うっとりと囁く。



「今夜のこと、一生忘れないでね?」



 むしろ忘れたくても忘れられないと思う。

 哀川さんは俺にどれだけのものを刻んだのか、まったく理解してない。


 まだ甘い感触がじんわりと残る右肩に触れ、俺は心の中で泣き叫ぶ。


 ぜったい変な性癖、目覚めたぁ……っ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



次は明日、更新します。

次回は『第20話 寝不足の朝にデートの提案をされまして』です。

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