第4話 哀川さん、電気を消してベッドに待機

 哀川あいかわさんが浴室に入った。


 ――する、、んなら電気消しといてね?


 というとんでもない言葉と共に。


 俺は煌々と電気の点いた部屋のなか、まったく動けない。


「ま、待って、待って。なんでいつの間にかこんな状況になってるんだ……?」


 ただ夜にカップ麺を食べたくてコンビニにいっただけなのに。

 それがまさか同級生の美少女からあんなセリフを言われることになるなんて。


「俺、この後どうすればいいんだ……!?」


 頭を必死に回転させるけれど、結局、答えなんて出なかった。


 そもそも現在進行形で哀川さんがシャワーを浴びる水音が響いている。


 こんな状況でまともに頭なんて回らない。

 微動だに出来ないまま、十数分が過ぎた。


 そして。

 ガラガラと浴室の折れ戸が開く音が聞こえた。


 続いて脱衣所のドアもガラッと開く。


「あれ?」


 哀川さん、俺を見てパチパチと瞬き。


「ハルキ君、ずっとそこにいたの……?」


 はい。

 ずっとクローゼットの前にいました。

 哀川さんにジャージを貸した時から一歩も動いてません。


 当然、部屋の電気も点いたままだ。


「あー……」


 哀川さん、何かを察したご様子だった。


 ちなみに哀川さんの黒髪は濡れていて、やたらと色っぽい。着ているのも俺が貸したジャージなので、さらに何か落ち着かない気分になってくる。


 あと寝る時は下着はつけたくないと言っていたので、ひょっとしてあのジャージの下は……いや駄目だ。考えちゃいけない!


「ハルキ君もシャワー浴びたいよね? 外から帰った後だし」

「え?」


「はい、どうぞ浴びてきて。あ、ドライヤーは借りちゃっていい? じゃあ、ゆっくりいってきていいからね」

「あ、ちょ! 待って、哀川さんってば……っ」


 背中をグイグイと押され、浴室に入れられてしまった。


 明らかに男子とは違う、柔らかい手のひらに触れられて動揺し、上手く拒めなかった。洗面台からドライヤーだけ取り、哀川さんは「ごゆっくりー」と部屋に戻ってしまう。


「なんか今のって……」


 踏ん切りのつかない俺の背中を文字通りに押してくれた感じだった。


 男子としてはどうにも情けなくなってしまう。


「こ、これはもう……」


 据え膳状態というやつなのか?

 ひょっとしてこれ以上、中途半端な態度を取っていたら、逆に失礼になってしまうのか……?


 そんな自分に都合のいい思考が頭の端に浮かび出す。


 と、その時、ふいに視界の端に違和感を覚えた。


 いつも日常的に使っている、洗面台と脱衣所。

 そこに常ならぬものがある。


「あれは……」


 洗面台の下に置いてある、脱衣かご。

 そこに無造作に畳まれた女子の制服があった。


「え!? なっ!? まさか……!?」


 シャツ。

 ネクタイ。

 スカート。

 紺のハイソックス。


 おそらく、いや間違いなく哀川さんが脱いだもの。

 でもそれだけじゃない。


 畳まれたシャツとスカートの間。

 そのわずかな隙間から何かピンク色の紐のようなものが――。


「あ、ハルキ君? あたしの下着にイタズラとかしないでねー?」

「――っ!?」


 部屋の方から声を掛けられ、反射的に背筋が伸びた。


「し、しません! 絶対、しませんから!」


 秒速で服を脱いで、哀川さんの制服の上にかぶせ、俺は逃げるように浴室へ。


 で、結局、シャワーを浴びてしまった……。


「ああもう、何やってんだよ、俺……」


 濡れた頭をタオルで拭き、脱衣所でため息をつく。

 ちなみに格好はTシャツにスウェットのパンツ。


 俺の分の着替えは、洗面台の上の棚にいつも用意してある。


「俺、これから本当に……?」


 高校生男子として、どうしても動悸が加速してしまう。

 一方で心のなかの良識は『けしからん』と叫んでいた。


 二つの感情が天秤の上でグラグラと揺れている。


 気持ちが定まらないまま、脱衣所のドアを開けた。

 直後、俺は「え……」と声を漏らしてしまった。


 ――電気が消えていたから。


 当然、消したのは哀川さんだろう。

 部屋の方を見ると、人影はなかった。

 ただ薄暗い視界のなかで、ベッドに誰かが入っているのが見える。


 本能的に理解できてしまった。

 彼女は本気なのだ、と。


 同時に俺はようやく悟る。

 これはもう……戸惑いが許される空気じゃない。


 ベッドのそばにいき、恐る恐る話しかける。


「えと、哀川さん……?」

「……ん」


 彼女は壁側を向いていた。

 しかし俺の呼びかけで、こっちへ振り向いてくれる。


 黒髪が頬の上でさらりとこぼれていた。

 俺の心臓が急速に早鐘を打ち始める。


 カーテンの外からの明かりのせいだろうか。

 暗い部屋のなかで、氷の宝石のような瞳だけが輝いて見えた。

 

「……いいよ。こっちきて」


 哀川さんが掛け布団を少しだけ開いた。

 お風呂上がりの女子の甘い匂いが鼻先に届く。


 それだけで気を失いそうだった。

 頭がどうにかなってしまいそうだ。


 健康的な男子がこんな誘惑に耐えられるわけない。


「本当に……いいの?」

「いいよ」


 迷いのない返事だった。


「でも俺なんか……」


 哀川さんは学校一の美少女だ。

 一方、俺は名前すらほぼ忘れられてた、モブ生徒。


 月とスッポンなんてレベルじゃない。

 銀河系とミジンコぐらいの差がある。

 あまりにも釣り合わない。


 なのに哀川さんは小さく笑ってくれた。


「だって……」


 囁きのような小さな声。


「……コーヒー、温かかったから」

「コーヒー?」

「そ。あと……キミが作ってくれたご飯」


 夢をみるようにまぶたを閉じ、彼女はさらに微笑む。


「すごく温かかった。あれだけで……十分。本当は地面に頭をつけてお礼を言いたいくらい」

「コーヒーと食事だけでそこまでされたら、こっちが申し訳ないよ」

「じゃあ、逆にちょうどいいんじゃない?」


 細い、とても細い腕が伸びてきて、俺のTシャツの裾をちょこんと摘まんだ。


「これが……土下座代わりのお礼ってことで」


 控えめな力で引っ張られる。

 もう拒もうとは思えなかった。


 哀川さんの心情は多少分かる。立場が逆だったら、きっと俺も何かしらの形で恩を返そうと思っただろう。


 だから覚悟を決めた。

 自分からベッドのなかに入り、彼女へと近づいていく。


 そんな俺の心境の変化を察したらしい。

 哀川さんはどこかホッとしたように表情を緩めた。


「……ありがと。ハルキ君が初めての人になってくれるなら……あたし、まだ救われる、、、、、、


 まだ救われる?

 その言葉が気になって、俺は無意識に動きを止めた。


 哀川さんは気づかない。


 俺からほんの10センチしか離れていない至近距離で、夢みるようにまぶたを閉じたまま、独白のようにつぶやく。


「本当は今日、あの公園で……誰か適当な男に捕まって、処女捨てちゃおうと思ってたの。もう全部どうでもいいと思って……。でもハルキ君が奪ってくれるなら、知らない男よりずっといい……」


 ああ、なるほど、そういうことか。

 そういう気持ちで、こういう状況になってるのか。


 ――危なかった。


 寸前で我に返り、俺は哀川さんから離れてベッドを下りる。


「ハルキ君?」


 俺の異変に気づき、哀川さんがまぶたを開ける。


 正直心底もったいないと思いつつも、俺は気の抜けた笑顔で告げた。


「やめとこう、哀川さん」

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