第5話
「おい!中沢!!」
「あ?」
突然名前を呼ばれ、中沢はハッとする。どうやら少し眠り込んでしまっていたようで、さっきまで、中沢を煽っていた男は既に姿を消していた。中沢は寝ぼけ眼で頭をポリポリと掻きつつ、目の前に座る男を見る。
「なんだよ」
「お前…本当に大丈夫かよ?なんか顔色悪いぞ?」
そう言って心配そうに見つめるのは、身長で黒いスーツを身にまとっているにもかかわらず女のような美しい艶やかな長髪で妖艶なオーラを持つ不思議な男、月瑛だった。特徴的な低い声が妙に耳に残り、中沢は思わず顔をしかめてしまう。しかし彼はそんな事を気にも留めず、今度は心配そうな声音で尋ねてきた。
「なあ…俺が来るまでに何かあったのか?」
「…何もねえ。」
そう言って顔を背ける中沢だったが、月瑛は納得していないようで更に食い下がってくる。
「嘘つけ!絶対なんかあっただろ!」
「うるせーな、何でもねえって言ってんだろが!!」
中沢はそう言って立ち上がると、月瑛を睨みつけた。その鋭い眼光はまさに猛禽類を彷彿とさせるもので、並の人間なら思わず萎縮してしまいそうな程である。しかし、そんな視線をものともせずに月瑛は続けた。
「隠すなよ!ますます気になっちゃうだろ?」
「…だから何もねえって言ってんだよ」
そう言って再び椅子に腰掛ける中沢だったが、やはり様子がおかしい事は明らかだった。そもそも中沢がここまで感情的になる事自体が珍しいのだ。いつも冷静な彼がこんなにも取り乱すというのは、滅多にない。雪でも降るのではないか。
「…前、俺が頼んだ『都心爆破陰謀事件』の事で、何か言われたりした?」
「別に」
中沢はそう返すと再びグラスを手に取り、残っていたグレンドロナックを飲み干す。そしてそれをカウンターに置くと立ち上がった。どうやら帰るつもりらしい。
「…なあ、本当に大丈夫なのか?」
月瑛が尋ねると、中沢はゆっくりと振り返ると言った。
「ああ…悪ぃ、心配かけて」
そういう彼の表情は明らかに暗く、まるで何か大きな悩みを抱えているかのようだった。しかし、そんな彼の心情を知る由もなく、月瑛はただ黙って見送る事しか出来なかった。
◆◆◆
店を出た路地裏の隅の壁に勢いよく拳を振るいながら、中沢は今にも人を殺しそうな凶悪な表情を浮かべていた。そしてブツブツと何かを言っているようだった。
「クソが……ッ!あの野郎、好き勝手言いやがって!!」
そう言ってまた壁を殴る。ドゴッという鈍い音が鳴り響き、壁に大きなヒビが入った。しかし彼はそんな事などお構いなしといった風に再び拳を振り上げる─。
血の滲む拳と、どうにもならない湧き上がる苛立ち。そして、揶揄うようにして笑っていたあの、眼鏡の男。
”一度、政界に手を出した裏の人間は地獄に、落ちるってな─!”
そんな相手の言葉が頭の中で反芻し、その度に心臓を握りつぶされるような痛みを覚える。まるで何かに責め立てられているかのように胸が苦しくなり、吐き気さえ催した。
「……クソっ!」
そして彼は再び壁を殴りつけた。鈍い痛みが走り、拳からは血が滲んでいるがそんな事はどうでもよかった。ただ今はこの胸の中の苛立ちをどうにかしたい一心だったのだ。しかしいくら拳を叩きつけても一向に収まる気配はなく、むしろ更にそれが悪化していく気がしてならない。
「ハアッ…、ハアーッ…!」
ずるり、とその場にしゃがみ込む中沢。
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