十六章

128. ハヤッタとハ二カ医師

リクイが西国に向けて出発してから、はや二週間が過ぎた。


ハニカ医師はリクイに約束したように、ハヤッタにずうっと付き添っていたが、彼はまだ目を覚ましてはいなかった。もうそろそろだとは思うのだが、予想よりも、時間が長くかかるようだ。


 それでは、今日はそろそろ町の医院のほうに帰り、あちらの患者の様子を見てくることにしようか。戻ってくるまでの間は、ハヤッタ様の世話は、直弟子に任せることにしようと思った。

「ハヤッタ様、今日はこれで帰りますが、数日中に、また戻ってまいります」

 

 その時、ハヤッタの手がぴぴっと動いたので、ハニカが目をこらした。


 ハヤッタは夢を見ていた。

 白い霧の中を歩いていた。自分は何かを捜していた。でも、それが何なのかはわからない。

 その時、声が聞こえた。とても懐かしい声だ。ハヤッタ、ハヤッタと呼んでいる。

「伯父さん、シカンド伯父ですか」


 その時、目をあけたハヤッタに見えた顔は、伯父上ではなく、見たことがない人物だった。


「私はハニカという医師です」

 とその男性が言った。

「リクイくんの知り合いの医者です」

「リクイ……リクイ」


「リクイくんはあなたの……、あなたは毒矢に射られて、ここ四ヵ月間も、昏睡状態でした。あの屋敷が崩壊した時に、壁に仕掛けられていた鉄の矢が、放たれたのです。矢に刺さったあなたをリクイくんが応急処置をして、私を呼びました」


「四ヵ月間もですか。この国はどうなっていますか」

「幸にも、みなさんの尽力で、正常に動いていますよ。今のところ、戦争は起きてはいませんから、ご安心を」

「そうですか、よかった」


「ハヤッタ様のことは、国王やニニンド殿下を初めとして、みんなが復帰を待っておられます」

「ああ、ニニンド……」

「ハヤッタ様が回復したら、王太子の式が執り行われると聞いています」

「はい。それで、リクイくんは、どうしていますか」


「リクイくんはあなたが目覚めるまでここにいたいと言ったのですが、西国での学校が始まります から、私がしっかりと見守るという約束で、旅立たせました」

「ああ、それはよかった。よかった」

 ハヤッタが手を胸に当てて、目を閉じた。


「では、口でもゆすぎましょうか」

 ハニカ医師がハヤッタの背を支えて、ベッドに座らせた。


「いろいろお聞きになりたいことはあると思いますが、今日のところ何も考えずに、ゆっくりと休んでください。助手と看護婦を呼んでお世話をさせましょう。熱いお茶をおいれしましょう」


 ハニカ医師は机に行って、その引き出しから小さな花のついた皿を取り出した。皿の上には黒くて丸い飴玉のようなものがふたつ、載っていた。

「その前に、まずはこれを」


 先生はご存知なのですね、とハヤッタの目が訊いていた。

 私以外は誰も知りませんから、ご安心ください。

「消毒してありますから、大丈夫です」

 とハニカ医師が鏡を両手でもった。


 ハヤッタはその鏡を見ながら、瞳にその玉をいれると、瞳が黒に変わった。

「何から何までかたじけないです。このお礼は」

「そのようなことは考えないでください。医師の務めをはたしているだけですから」


 ハニカが皿を手にとり、描かれている花の図に目を近づけた。

「おお、これはセンニチコウですね」

「センニチコウという花の名前は聞いたことがありません。これは、ベニハナツメクサだと思っておりましたが」

「似ていますが、両方とも赤くて紫がかっていて、似ていますが、ほら皿に描かれた花はまるいでしょう。これはセンニチコウです。薬草を調べる時に、調べたことがありますから、確かです」

「そうでしたか。センニチコウなのですか」


「センニチコウの花言葉をご存知ですか」

「いいえ。ベニハナツメクサのほうは調べたことがありまして、変わらない友情でしたが」

「センニチコウの花言葉は、永遠の愛です」

「永遠の愛。永遠の愛ですか」

 

 そう繰り返して息をとめたハヤッタの目から涙が出たのをハニカ医師は気が付かないふりをして、扉をあけて、部屋を守っていた兵士に、助手たちを呼ぶように命じた。


「それでは私はこれで帰りますが、二日後にまたやって参りますから、それまでは休養していてください。机に行って、仕事をするのはお慎みください。食べて、飲んで、寝るのが、今のあなたの仕事ですよ」


「はい。私はもう大丈夫です。しかし、二日も待てませんので、リクイくんの話だけでも、聞かせてもらえませんか」

「そうですね。リクイくんは私のもとで修行をしたいと言っていたのですが、西国に行きなさいと私が勧めました」

「そうですか。彼は先生を見て、医者になりたいと思ったと言ったことがありました」

「でも、リクイくんは、最初はこの国を離れるつもりは毛頭なかったのですが」


「ええ。大きな決断の前には必ず嵐がありますよね。雷が鳴り、行く道は一つだけ。いや、これは私の場合ですが」

「わかります」


 ちょっと沈黙の時が流れた。ハニカはハヤッタのいう嵐について尋ねてみたいとは思ったが、それはしばらく待つのがよいだろうと話題を戻した。

「私もあの医学学校を出ていますので、最初の難しさはわかります。ですから、早く発たせて、新学期に間に合わせてやりたかったのです」

「ありがとうございます」


「リクイくんはあなたにこれを残して行きましたよ」

 とハニカは手紙と丸まった紙を渡した。

 

 そして、茶をいれるために、席を離れた。手紙にはこれまで の親切に対する感謝、留学するという挨拶、そして早く治ってくださいと書いてあった。丸まった紙を広げてみると、そこには机に向かっているハヤッタが、こちらをむいて、笑っている水彩画だった。突撃の前の深夜、リクイが部屋を訪れて、茶を入れてくれた時の絵だ。


 ハニカが茶を運んできた。

「とてもうまく描けていますね」

「ああ、この場面はよく覚えています。彼が深夜に茶を運んでくれたことがありました。おいしい茶でした」

「私の茶も飲んで見てください」

  ハヤッタが茶をすすった。

「これが生き返った味。とてもおいしいです。身体に染みわたります」

「ハヤッタ様、それでは、少し起き上がって歩いて見ましょうか。じきに、軽い食事を持ってこさせましょう」

 と黒眼鏡を手渡した。

 ハヤッタは微笑して、その眼鏡をかけた。




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