十一章
91. サララの怒り
馬車の中で、ニニンドは疲れすぎて背板にもたれて目を閉じていたので、リクイが顔中についている紅を、手ぬぐいで落とそうとした。その紅はしつこくてなかなか落ちないので、唾をつけて拭いた。
ふたりが宮廷に戻り、ハヤッタの執務室に向かっていると、廊下の壁によりかかって立っているサララの姿が見えた。
ふたりはサララがキャラバンに行っていると思っていたので、その姿を見ておどおどしてしまった。サララはふたりを見てうれしそうに手を振ったのだが、その手が途中で止まった
サララは杖を鳴らして大股で歩いてきた。
「朝まで何をしていたの?」
ニニンドがすぐには答えられずにいると、彼の右手を左手で捕まえて、右手で顔を強く殴った。
「サララ姉さん」
ニニンドは少しよろめいたが、顔を抑えもせず、サララを見ることもなく、目を伏せたまま、そこを通り過ぎた。
「恥知らず」
とサララが叫んだ。
「恥知らずって、なんだよ」
とリクイがサララの前に出た。
「何の話も聞かないで、殴るなんてひどいじゃないか」
「何も言わないからじゃないか」
「話すチャンスを与えないからだよ。恥知らずと言われることなんか、していない」
「あの顔はなんだ。わたしには、どこに行って、何をしたか、わかるのさ」
「何がわかるというんだい。顔の紅は仕方なかったんだ。大事な情報を得るためには、仕方がなかったんだ」
「大事な情報を得るためなら、何をしても、いいのかい」
「サララ姉さん、今は国家の一大事なんだよ。ニニンドがどんなに苦労して情報を手にいれてきたか、理解すべきだ。すぐにかっとなるのは、姉さんの悪い癖だよ」
サララはリクイのこんな強い口調を聞いたことがなかったから、驚いていた。
「そうだよ、わたしの悪い癖さ。でも、これでずっとやってきたんだからね、それがどうしたというんだ」
サララは餌を取られた鶏のように怒って、杖の音を天井まで響かせながら立ち去った。
サララはナガノの部屋にはいるやいなや、立ったまま号泣したから、ナガノはおったまげて、すぐには言葉をかけることができなかった。
「若さまに何があったのですか。襲われたのですか。生きていますよね」
「生きている」
「怪我は」
「ないと思う」
とサララが言ったので、ナガノは若さまが生きておられたら、それでよい。何でも受け入れようと思った。
「あの恥知らずが」
とサララは怒っていた。
若さまが顔中に紅をつけて帰ってきた話を聞いて、ナガノは内心笑った。ナガノは彼が夜旭町に出かけて行ったのは知っていたし、そのくらいはたいしたことではない。しかし、サララがこの世の終わりのように嘆いているので、この子は思ったよりナイーブな娘かもしれないと思った。
ナガノはもともとサララを気にいっていて、彼女が来るたびに、自分の部屋に泊めていた。
サララはそれなりの魅力はあるものの、特に美しい娘ではないし、言葉は悪いし、態度がでかい。身の程をわきまえるということを全く知らないし、砂漠の村に住み、足が悪い。しかし、ラクダ乗りは得意で、男まさり。キャラバンに出かけるので、肌が真っ黒で、髪は縮れている。
ナガノは若さまにはこういう友達が必要だと考えている。サララは男友達のようなものだ。若さまの周囲には、頭のよい者はいても、このようにずけずけと言ってくれる人間がいないので、サララは貴重な存在なのだ。
それに、サララが将来、妃や側室になることはないし、本人もそれは望んでいるはずがない。若さまも、そんなことは考えてもいないだろう。
町では名門や裕福な家の娘たちが、若さまの妃候補になろうと日夜、その美しさや教養を磨いていることをナガノは知っている。そのリストも手にいれてある。将来、若さまはそのひとりを正妃に迎え、穏やかな家庭を築かれることだろうと想像している。その妃は決して、若さまに向かって「恥知らず」などとは言うことはない。
サララが帰った後、ナガノはニニンドの部屋に行った。ナガノは最近、板に小さな車輪をつけた板車を作らせた。普通は家来に引っ張らせるのだが、今日はひとりで板車を漕いでやってきた。
若さまはベッドの上に伏せるようにして、濡れた雑巾のように眠っていた。息をしていないように見えたので、ナガノがあわてて少し揺り動かしてみたら、息が聞こえてきたのでほっとした。若さまは着替えもせず、顔のあちこちに紅を残したままの姿で、そのベッドから足首から下を出して眠っていたが、その恰好は子供の頃のままだった。
周囲には報告書が散らばり、机の上には書類が山積みされていた。こういう仕事が好きではない彼が、どんなに努力をしているのか、ナガノは知っている。
ナガノは彼の髪の毛をやさしく撫でた。愛おしくて、若さまのためなら、どんなことでもしたいと思う。ナガノは部屋にお湯をもってこさせて彼の顔を拭き、着替えさせたが、ニニンドが目を覚ます気配はなかった。
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