72. 医者になりたい
「父はいなくても、ぼくには爺さまや兄がいましたから」
「そうですか。きっと大切に育てられたのでしょう」
「でも、こんなふうに、お父さんみたいな方のそばで寝られるなんて、贅沢だなぁ。考えてみたこともなかったです」
とリクイはうれしそうに布団を並べた。
布団にはいった時、このまま寝てしまうのは惜しい気がした。
「子供の時の思い出は何ですか。もしよかったら、リクイくんが覚えていることを何か話してくれませんか」
「子供の頃の話で、覚えていること……」
リクイは砂漠で、兄とラクダを見張りながら、夜空の星を見て、いろんなことを話したこと。兄が徴兵されてからは、鳩を飼ったり、畑を作るようになったことなどを話した。
「一番、大変だったことは何ですか」
「一番ですか……、それは忘れました。いや、忘れてはいないんですけど、人が聞いて面白いことではないですから」
「私を楽しませようとなんて、思わないでください。ちよっとしたことでもよいのです」
リクイは兄が徴兵された直後、兄が学校に行ためにくれたお金を全部取られてしまったこと。朝起きると、不安がいっぱいで、昼間は仕事や食べ物を探してうろうろし、夜には恐ろしいほどの寂しさがやってきた。乗り越えられないと思った夜があったことを話した。
ああ、という小さな悲嘆の呟きが、ハヤッタの口からもれた。
「大丈夫ですよ。ハヤッタ様の息子さんはきっと大丈夫ですよ。ぼくは兄に頼ってばかりいたから未熟で、人よりうまくやれないことが多いんです」
ハヤッタは、リクイが息子を思う自分のために話してくれているのだと感じた。
「どうやって困難を乗り越えたのですか」
「助けてくれた人がいたのです。サララ姉さんとか、ハニカ先生とか」
「そうですか。ありがたい」
ハヤッタは手で口を押えて、二度ばかり咳をした。
「はい。これからは、ぼくは兄に頼りすぎずに、生きていける人になりたいんです。ぼくは後悔が多いです」
「後悔ですか」
「たとえば、爺さまはその朝は隼を飛ばして元気だったのに、午後に突然熱を出して、二日後には亡くなってしまったんです。その夜、爺さまは何度もぼくを部屋に呼んだのですが、ぼくはこわくて行けなかった。爺さまはぼくに言いた残したいことがあったのだと思います」
「どんなことを伝えたかったのだろうか。リクイくんはどうして行かなかったのですか」
「たぶん爺さんが死んでしまうのがこわかったから」
でも、それは本当ではないとリクイは思った。死がこわいのではなくて、爺さまの顔を見るのがこわかった。何と言われるかがこわかった。
四、五歳くらいの時、日々を爺さまは日々の生活にとても苦労していたことがあり、そのことはリクイにもわかっていた。そんなある夜、リクイが寝ていた時、「おまえは、どうして生まれてきたんだ」といううなり声が聞こえ、目をあれたら爺さまの顔があって、目が合った。
爺さまはものすごく驚いて、何でもない。おまえはきっと夢を見たんだ、という振りをして立ち去った。
自分は生まれてこないほうがよかったのか思うとリクイは悲しくて仕方がなかったけれど、兄がいるからいいと思った。
ジェットは星を見て歌うのが一番好きだった。星も、砂漠も、笛も、空を飛ぶ鳥もみんな好きだけれど、星が好きなのは、「それはリクイと一緒に見ているからだよ」と言ってくれた。
ぼくは、兄さんがいればいいんだ。
「爺さまのことはよくわからないけど、兄さんなら知っています。帰ってきたら、聞けるかと思います」
「そうですね。ぜひお会いしたいです」
「リクイくんは宮廷の学校が終わったら、どうしますか。殿下のそばで働かれますか」
「ぼくはハニカ先生のように、苦しんでいる人を助ける人になりたいと思っています」
「医者ですか。リクイくんは血は大丈夫ですか」
「えっ」
「実は私は眼医者になる前には、医者を志していたのです。私の場合は親に言われたのですが。育ての親ですがね。医学学校にははいれましたが、実習がだめでした。大量の赤い血を見て、気を失いそうになりました」
「本当ですか。考えられません」
リクイはもう少しで笑いそうになったが、そこはこらえて困った表情をした。
「情けない話ですが、本当です。だから、眼科に変えました」
「ぼくは肉をさばけるから血は大丈夫だと思いますけど、人の血はどうなのでしょうか」
「きみならなれるよ。ぜったいになれます」
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