26. 姫の飛距離

  ニニンドはこう語った。

 彼が十歳のある日、母上を先頭に、山賊の連中と起伏が激しい岩場を歩いていると、目の前に五、六メートルほどの裂け目があった。

 歩くので精一杯の連中は、そこを飛び越えるのなんて考えもしなかったが、母上はおもしろがって挑戦する気配を見せた。


「まさか。ここを飛ぼうというのではないですよね」

 と仲間のひとりが言った。

「飛ぶ、と言ったら」

「とても女子が飛び越えられる距離ではないですよ」

「男なら、できるのか」

「男なら、できる奴がいるでしょう」

「ふん。この女親分に、これが飛び越えられなくてどうするんだ」

「やめてください。無理です」


「こんな距離、うまく助走さえすれば、飛べる。前にも、これ以上の幅を飛んだことがある」

「怪我をします。死んでしまいます」

「いいか、見ておれ」

 

 母上は勢いをつけて、スローモーションのように飛び出した。まず両手と右足が前に出て、左足が後方にあった。割れ目の中央あたり、左足が前にきて、両手は空気を漕ぐようにして後ろへ。そして、向こう側に渡ったと思った瞬間、するとり姿が見えなくなり、落ちたようなのだった。まるで母上が好きだった古代ギリシャの女詩人みたいに。その瞬間はみんなが見ていたはずだったのに、なぜか、だれもが見ていなかった気がするのだった。

 みんなですぐに下に行って捜索したのだけれど、何も見つからなかった。何日捜しても、服の一片も見つからなかった。


「女子にできないと言われたから、母上の挑戦心に火がついてしまったのでしょう。もう少だったのに残念です」

 国王はおやっという顔をした。

 ニニンドが一番残念がっているのが、母が飛べなかったということらしいのだ。


「そのような不運にもめげず、ニニンド様が元気で生きていてくださって、うれしゅうございます」

 とハヤッタが取り繕うように言った。

「ありがとうございます」


「そうであったか、そうであったか」

 グレトタリム王はニニンドの声の響きが若いというだけでも、喜びが湧いてくるのだった。王が王弟のほうを見ると、彼も笑みを作って頷いた。


「ついては遅ればせながら、妹クリオリネの法要を執り行おうと思うのだが、ニニンドはどう思うか」

 ニニンドはそういう提案を予想していなかったので、すぐには返答できなかった。その表情に変化は見えなかったのだが、エネルギーを集中させて考えていることが王には感じとれた。


「われら兄ふたりとして、最愛の妹の死を知った今、このままにしておくわけにはいかない」


 クリオリネ姫は駆け落ちをして、行方がわからくなったので、王家のすべての書類から名前を抹殺まっさつされてしまっていた。王家にはそのような女子がいてはならないのだった。


「妹の名前と存在をすべて復元したい。だから、それなりの追悼の儀式をして、大切な妹を送り出したいのだ」

 と王が言った。私もそう思います、と王弟が丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。母上もきっと喜ぶことでしょう。伯父上様方の話は、母上から聞いておりますから」

「それは、どんな話か」

 王が身を乗り出した。


「兄上様が、まだ子供だった母上と遊んでくださった話です。一の兄上は石投げが得意で、二の兄上はかるた遊びが得意だったと語っておりました」

 

 そうかそうかと兄弟はうれしそうに顔を見合わせたが、そういうことを息子に語っていた妹を思い、後悔がこみあげた。

「遊んでやったのはほんの短い期間で、すぐに多忙になり、思うようには、妹をかまってやれなかった。いや、時間を作ろうと思えばできたはずだ。クリオリネはどんなに寂しかったことだろうか」

 と王が言うと、王弟が涙をぬぐったようだった。


「その追悼儀式については、明日明後日にするというわけにはいかない。心を尽くした式をしてあげたいので、それなりの準備というものがある。ニニンドよ、それまではここに滞在してくれるか」

 と王が心配げに甥の顔を見つめた。


 ニニンドは数秒考えてから、頭を下げた。

「はい。よろしくお願いします」

 

 というわけで、ニニンドはすぐに帰る予定で来たのだが、その滞在が伸びたのだった。

 グレトタリム王は早々と一点を先取したのだ。国王は一枚上手だ。なかなかの役者ではないかとハヤッタは言葉を呑んだ。



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