2. うれしい訪問者

 リクイは毛布を取ってくるために、玄関の青い扉を押した。砂で、木戸が重くなっている。扉の内側には、砂除けのための絨毯が吊るしてあるけれど、砂塵は部屋の中までもはいってくる。知らないうちに、部屋は砂でいっぱいになる。

 寂しさは砂に似ている。どんな隙間からもはいってきて、心が寂しさでいっぱいになる。

 リクイは砂の掃除の仕方は知っているけれど、心の寂しさを片付ける方法がわからない。

 

 リクイは吊るした絨毯を押しやって、灯りのない部屋にはいっていった。入口をはいると、居間のような生活スペースがあり、その奥に小部屋がある。小部屋の寝台の上には、毛布が置いてある。灯りがなくても、そこまでの歩き方はわかる。

 

 ところが、居間の中央に、あるはずのない茂みみたいなものがあり、それにつんのめって、きゃっと声を上げながら、その茂みの上に覆いかぶさった。茂みは丸くてあったかくて、何かの塊。息を感じるから、これは生き物だ、本で見たことのあるあの大蛇かもしれないと思ったら怖くなり、一メートルくらい飛び下がった。

 

 でも、くねくねしていないから、蛇ではないようだ。では、何なのだ。何が侵入して来たんだ。羊、山羊、犬、いや違う。リクイは後退りしながら言った。

「ひ、ひと?」 

 茂みがもぞもぞと動いた。

「あのう、うちには金目のものは何もないです」

 その茂みがもっと動いた。


「ああ、まずい」

 それは女子の声だった。


「リキタ、わたし、あんたを待っているうちに、寝てしまったようだ」

 リキタと呼ぶのはサララしかいない。近所に住んでいる女の子で、リクイのことをリキタ、小さなリクちゃんと呼ぶ。サララはジェット兄の幼馴染みで、リクイを子分のように思っている。


「リキタ、遅かったね。仕事なの?」

「いいや、仕事は全然、もらえなくて」

「学校へ行ってみたけど、まだ登録していないっていうし、学校に通うはずじゃなかったの?」

「それが……」

 リクイが口ごもった。じゃ、こんなに遅くまで何をしていたのかと訊かれるのが怖い。ただおろおろと彷徨っていたのだから。


「まずは起き上がって、灯りをつけようか」

 サララの影がむっくりと起き上がった。

 リクイはサララがここにいるということがうれしくて、今夜はなんとかなりそうだと思った。叱られたっていい。今、願うのは、サララがすぐに帰ってしまわないこと。

 蝋燭をつけると、サララの茶色の瞳が心配そうにこちらを見ていた。


「ちゃんと食べているの? 痩せたんじゃない?目の下にくまができちゃっている。今、何か作ってあげるから」

 サララは太い糸で編まれた袋の中から、油紙に包まれたものや野菜を取り出した。それを片腕に抱えて、杖をつきながら、台所へ行った。リクイは錫の燭台を持って、その足元を照らした。


「ジェッタは無事に出発した?」

 サララはジェットのことをジェッタと呼ぶ。サララは呼び方もそうだが、何でも、他の人と同じようにするのが好きではない。


 リクイは別れの光景を思い出し胸が苦しくなったから、ただうんと頷いた。

「たくさん見送りが来た?」

「はい」

「ミヤンギやハロラも来た?」

「はい」

「着飾っていた? 泣いていた?」

「はい」

「ジェッタは何か言っていた?」

「なるべく早く手紙を書くって」

「えっ、誰に」

「ぼくに」

「ミャンギやハロラには?」

「元気で、って」

「ああ、わたしも見送りたかった。できれば山のあたりまで一緒に行きたかったけど、キャラバンに行っていて、帰ってきたばかりだよ」


 でもあの日、サララが近くの低木の陰に座って、見送っていたのをリクイは知っている。


 サララは一番近くに住んでいる隣人、といっても、ニキロは離れている。彼女は子供の時にラクダから落ちて右足に大怪我をしたので、歩く時には杖をつく。

でも、ラクダ乗りは大得意で、春の祭り、村の一大イベントのラクダ競争では十四歳の時から、チャンピオンの座を守っている。

 

リクイは三年前の大会を忘れない。あの春、サララが初勝利したのだ。大の男達に混じって、精悍な顔でラクダを走らせるサララは、リクイが知っているサララではなかった。

 ひとり遅れふたり遅れしても、サララは大きな男たちに交じって先頭集団にいる。レースがだんだんと接戦になっていき、トップの数人がゴールを目指す時、そこからがサララの正念場だ。

 サララのラクダはカリカリ、カリカリの背中には革のマットが敷いてあり、その上に普通より少し高めの椅子が載せてある。サララは手綱を握り、立ち上がり、叫んだ。

「カリカリ、さあ、行こう。勝つんだ。できる、できる」


 いつもはがちょうのような曲線のカリカリの首が、飛んでいく雁の首のようにまっすぐに伸び、頭が矢尻のようになって駆けた。頭、背中、尻尾が傾斜を描く。

 そして、サララは先頭でゴールする。頭を下に向けたまま、片手を青い空に伸ばした。サララは特別だ。サララは輝くスターなのだ。

 リクイはサララの近くに住んでいるということさえ、誇らしく思える。


 サララとカリカリは特別な絆で結ばれている。サララはラクダの走らせ方を誰かに習ったわけではない。大怪我をした後で、自分で考えて、工夫と修練を重ね、磨きをかけたのだ。リクイはサララが練習しているところをよく見に行ったから、よく知っている。


「ありがとう、サララ姉さん。姉さんが送りに来たかったって聞いたら、兄さんは喜びます」

「そうかなぁ。あの、何か言っていなかった? 伝言とかない、わたしに?」

「ああ、元気でねって、言っていました」

 ふーん、とサララは気にしていない素振りをしながら、包丁を持つ手が止まった。


 リクイは、ジェットがサララを思っていることを知っている。サララもジェットを思っている。けれど、このふたりはなかなか難しい。好きなのに、無視し合っている。人って恋をしたら、簡単に口がきけなくなる、そのことはリクイも少し実感している。


「でもさ、知っている? あいつはどうしようもない奴でさ」

 サララが唇を尖らせて、リクイを睨んだ。

「兄さんのこと?」

「そうだよ。ジェッタはよく言えば、やさしい。悪く言えば、人たらし。人がよすぎる。頼まれたら断れない。特に女子には優しくするから、みんな誤解しちゃう。彼も女子が大好きで、もてるのも、大好きでしょ」

 

 固めの丸いパンがテーブルの上に置かれている。

「もうすぐ豆スープができるから。さぁ、手と顔を洗ってきなさい。あんた、ひどい顔しているの、知ってる?」

「ひどいですか」

「ひどいったら、ない」

 サララのその笑顔を見た時、リクイの中の何かが突き上がってきて胸がいっぱいになり、空腹さえも忘れた。

「はい。ちゃんと洗ってきます。それから、スマンを柵の中にいれてきます」


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