ブラッドスピア 5



「大丈夫だよ、春野。怖がることないよ」



 プラチナホワイトの髪を指で耳に掛けながら、それは言った。春野は高まった心拍が何かにコントロールされるように静まっていくのを感じ、緊張の解けた腕を急いでピルケースへと伸ばすと二錠を取り出し噛み砕く。



「薬か。――斉藤はね、おばあちゃんを大切にしてくれた。とても残念だよ」


「おばあちゃんって。満与さん……」


「そう。おばあちゃん。そして、おばあちゃんだけが美月を可愛がってくれたんだ」



 春野は、おずおずと手を少女に伸ばし、思いなおしたようにそれを引っ込めた。斎藤の躯の前に在る子供の足はその場を少しも動かなかった。混乱した頭を振って、目を閉じ開くとそれを見据える。



「あなた……えっと、美月ちゃんなの?」


「そう、とも言えるけど、まあ違うとも言える」


「どっちにしても……あなた、現実にここに居るの? それとも私の幻覚なの?」


「春野の持ってる手紙、槍、斉藤。全部本物。だけど私自体はどうかな?」


「じゃあ、栃姫?」



 少女は目を輝かし、そう、と呟いて楽しそうにカラカラと笑った。



「それは、もう、遠い昔のお話よ……」


「もういいわ。じゃあこの手紙は何? あの槍は? あなたはわたしを――」


「落ち着いて。発作が出るよ」



 その言葉に春野は逆に落ち着きをなくし、コートの襟を引き寄せて視線を泳がした。



「わたしを、弄んでるの」



 少女の緑の瞳が春野をしっかりと捉えた。



「いいえ。あなたをコケになんかしてない。斉藤の後を次いで槍を人見に届けて欲しいだけよ」


「あなたが!」


「私には出来ない。そういう役割じゃあ無いの」



 そういいながら少女は電柱に向かって手をのばす。その手は電柱を突き抜けて反対側でピースを作った。



「この世の生きとし生けるもの全て、って」


「今すぐじゃ無い。でも、よくあるでしょう? 『あの時、ああしていたら』って、後になって思い返す場面。それが今よ」



 少女はピンクのジャージのポケットに手を突っ込み、交差点へと目を遣った。そこでは今まさに一人の男が包丁で人を刺そうとしていた。



「このゴミ野郎!」



 叫び声と共に、断末魔が交差点に木霊する。少女はその美しい目を春野に再び向ける。



「感情の開放。ある意味自由なのかしら? そしてそれが新たな怒りを生み、またその報いを受ける。ボロ雑巾のように当てられ続けたパッチプログラムを剥いでしまったら、万物の霊長はああなるの。なんか間違ってると思わない? やりたい様にやればあんなに醜い姿になるし、美しく居ようとすれば、あなたみたいに薬を必要とする体になってしまう」


「何言ってるの? あいつらは何をしてるの? あなたは、一体何を――」


「私は、ちょっと諦めかけてるの。でも、人見は違うんだろうと思う。あんなだし、そもそも会話にならないから、たぶん、だけど。あいつはなんだかんだで人を愛している。そういう風に作られているしね。そしてわたしは人見の盟友として契約しているってわけ」


「……なんの話?」


「春野。よく聞いて。――美月だって無敵じゃないわ。やってることだって、基本はあなた方がここ二百年、考え出したグロテスクで乱暴な科学の延長でしかない。槍には美月の肉親である満与の血がたっぷり付いている。DNAはデータなのよ。プログラムを壊すならハードを壊すかソフト的に操作するかしか無い。でも美月の存在を壊すには、もっと高次のエネルギーの関与が必要なの。人間の領域で成せることは、ウイルスを仕込んで制御を狂わせるくらいしか無い。――不完全なあれに立場を与えてはいけないの。あれを殺せるウイルスをぶつけるしかない」


「何を言ってるのかさっぱりわからない。やっぱり私、狂ったの?」


「困った人ね」



 少女は大げさに首を縦に振って腕を組むと、光を放つ目を瞑り鼻から息を抜く。そして何かを思いついたように、目を開いた。



「あなたはお母さんが嫌い。何故ならネグレクトを受けたから。ついでにお父さんも嫌い。そんなお母さんを放置し、あなたに手を差し伸べることもしなかった。だからあなたは――」


「なんでそんなこと言うの……。やめてよ」


「あなたは自分の価値や意味を測る基準すら持ってない。自分を構築するための土台が無いから他人を認識することも、愛すことも、意味のあることをしてあげることすらも出来ない」


「やめて! 聞きたくない!」


「わかり合う術を持たない。言い換えればあなたの脳やそれが持つべきデータには欠損がある。あなたは人間として欠けているのよ。でもそれは、簡単に回避することが出来た。母親が治療を受け、父親がそれをサポートし、ほんの少しの時間、あなたと向き合ってさえいればね」



 春野は唇をかんで、膝を見つめ泣いていた。頭の中にあるはずの言葉は真っ白な光に消され、ただ子供のように涙を流し続けることしか出来なかった。



「可哀想な春野。……美月もそうなのよ。産まれた瞬間から、その目の色や肌の色で両親に衝撃を与えた。母親は更に感情を家族によって引き裂かれ、怒りを子供に向けるようになったわ。自分の恥部のようにわが子を世間から隠し、ストレスを子供を殴ることで発散した。そうせざるを得なかった。そして、殺してしまったの。でもやっぱりそれは、究極的には清子の考え方一つの問題でもあったはず。二郎はどうしようも無い男だったけどね」



 下を向いたまま涙を流し続ける春野を見て少女は目を細め、しゃがんでその顔を見上げる。



「あなた達にはどうしようもなかった。――でもね、今はあなたが選択出来る。ホテルに帰って、高速通行止めだったわ、って苦笑いしてベッドで丸くなりながら、これに巻き込まれて人を殺すようになるか、さもなくば斉藤のようになるか。――槍を人見に渡しに行くか」


「やるわよ。……他にどうしようも無いんでしょう?」


「『魂』かな。身体と魂、それぞれ単独ではただの機械やデータだけど、二つが合わさった時、それは人になるわ。可哀相な美月には、魂しか無いの。かりそめの身体では心は生まれない。無秩序なコードで、でたらめにエネルギーを吸い上げ、放射するだけの存在。――助けてあげてほしいの」


「あなたは……なんなの。あなたはおばあちゃんに『ヒミ』と呼ばれていた存在なの? それともそんな呼び名には意味が無いの?」



 涙を拭きもせず春野は少女の顔を凝視する。だが彼女は照れ笑いする小学生のような素振りを見せるだけだった。



「あなたはそう呼ばれて嬉しかったの? ヒミってもしかして……」



 少女は何も答えなかった。月を見上げ、その神々しいまでの白い体を一瞬だけ舞を踊るように美しく動かす。そして春野に視線を移す。



「可愛い女の子よ。おめでとう」



 少女はそう言うと、右手でVの字を作り、それを何かの儀式のように春野の額の前にかざす。



「さよなら……またね」



 彼女は、少しだけ寂しそうな視線を送り、ゆっくりと交差点の方向へと歩み去って行った。春野はそれを最後まで見送ることもなく、長い槍を抱えると何とかピンキーに収めた。



「オバケめ! わからないことばっか言って……もう!」



 叫びながらアクセルを踏み込むと、ピンキーはライオンのように吼え、リアタイヤから煙を上げながら荒々しく加速する。

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